by 岡崎久彦 on 2012年12月 4日
選挙の行方はまだ分からないが、安倍晋三首相の突如辞職という悪夢のような一日から、5代の内閣を経て再び安倍内閣を迎えることになりそうである。
当時、安倍内閣は、米国の初期占領政策とその後の共産系プロパガンダを受けた国内左翼勢力によって築かれていた戦後レジームからの脱却を着々と実施していた。
<<大事業だった教育基本法改正>>
戦後レジームと言っても、占領後半世紀を経て残っていたのは、憲法と教育基本法であったが、憲法については、憲法制定以来放置してあった憲法改正のための国民投票法を成立させ、そして、自民党が60年間できなかった教育基本法の改正を実現した。それは簡単な作業ではなかった。必要な手続きをすべて踏んで、徹底審議するために通常国会のほぼ全期間を要した大事業であり、そのために土日も休まず勉強と準備を尽くしたのが、安倍首相の健康を蝕(むしば)んだ最大の要因だったと思う。そのあとの参院選とインドなどの訪問は、安倍首相の健康に対して、無理に無理を重ねただけだったと思う。
そして、それが終わるが早いか、集団的自衛権の見直しのための有識者の会議を設置した。
会議は、集団的自衛権の行使を必要とする四分類について検討し、総論に加えて三分類まで逐次討議を完了し、最終の第四分類を討議する会を9月14日に控えて、12日に安倍首相が病で倒れた。事後措置についていくら連絡しようとしても、安倍首相は病院で点滴中(ひと月続いた由)で如何(いかん)ともし難かった。
<<安倍後継4内閣でブレーキ>>
当時、教育基本法の成立を受けて、その実施に専念しようとしていた某政治家は、安倍首相が倒れたという報を受けて茫然(ぼうぜん)自失し、その日のうちに3度躓(つまず)いて転んだという。その心配は正しかった。戦後レジームの脱却はその後急ブレーキを踏まれ、教育現場では、教員組合のサボタージュに遭って法案の内容の実施は難航した。
自民党政権の後継の福田康夫内閣は、安倍内閣の政策を引き継ぐ意思はなく、麻生太郎内閣は、その意思はあったが、折からのリーマン・ショックから日本経済を救うための経済措置に忙殺されているうちに、解散の機会を逸し、総選挙で大敗してしまった。
そのあとの鳩山由紀夫、菅直人の両民主党内閣については、振り返ってみて、日本の憲政史上最低の内閣であったことには今や、ほとんど誰も異存はないと思う。
<<安保環境も意識も好転した>>
野田佳彦内閣はよくやったと思う。日本の財政状態解決のため、早晩避けて通れないことは誰しも知っていながら、政治的に手をつけられなかった消費税の増税を決め、自民党が半世紀悩んだ武器輸出の緩和まで達成した。ただ、鳩山、菅内閣の失政で、民主党そのものの評価が地に堕(お)ちてしまっていて、多少(それ以上とは思うが)の成果は民主党政権に対する再評価にはつながらなかった。
そして、時はめぐって、また、自民党は安倍総裁となり、5年前の時点からの再出発が期待されるに至っている。その間、状況は変わっている。尖閣問題など国際情勢の変化の影響か、あるいは、戦後意識が最終的に薄れてきたせいか、先の自民党総裁選では、5人の候補がいずれも集団的自衛権の行使の支持を明言している。
ところで、自民党の友党公明党は今なお集団的自衛権に反対している。しかし自民党の方向はすでに決まっている。公明党としては半世紀間政治的に有効だった戦後平和主義を今後とも維持して、欧州の緑の党のようにリベラル路線を墨守する万年野党となるか、それとも現実路線をとって、政権与党として、福祉などについて自らの政策を反映させるようにつとめるか、その選択を迫られよう。
教育基本法の、教育の現場における徹底は安倍内閣の課題であるが、これについては、今や日本維新の会が大阪における実績によって頼もしい友党となっている。これには期待できよう。
終わりに、議席の大幅減が予想される民主党の野田首相に対して、一詩を献じたい。
勝敗は、兵家 期すべからず
羞を包み、恥を忍ぶ、是男児
民主の子弟 才俊多し
捲土重来 未だ知るべからず
楚の項羽が、手勢わずかに百余騎となって烏江の岸に追い詰められたとき、江岸の亭長が江東に逃れて再起するよう勧めたのを断って遂に自刎(じふん)したのを惜しんだ杜牧の詩である。「江東」を「民主」に変えた以外は原文通りである。
民主党には俊秀も多い。国政を担う才幹を持ちながら、自民党の世襲制に阻まれて民主党から立候補したが、鳩山、菅時代に、当選回数が少ないために機会を得られなかった人々である。
願わくば、野田首相は、たとえ項羽のように、最後は28騎の手勢となっても、真に国を思う人々を手元に残し、羞を包み、恥を忍んで、再起を図っていただきたい。それがお国のためである。
(おかざき ひさひこ)
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