【正論】「靖国」は日米離間の武器にならず 中国の戦略に脅えることなかれ
2006年5月8日 産経新聞朝刊掲載
<<内政干渉に米は関与せず??
靖国問題をめぐる日中関係について、日本は国際的に、特にアメリカにおける対日イメージにおいて、中国に負けているのではないかと危惧(きぐ)する声を聞く。
これは靖国参拝に反対の左翼勢力だけからでなく、真に日米関係の将来を憂(うれ)うる人々からも表明されている。 まず、安心していただきたいのは、日米政府間レベルにおいては何の心配もないということである。
四月の胡錦濤中国国家主席の訪米に際して、この問題が取り上げられるだろうという憶測が流れたが、実際は、とてもそんな雰囲気ではなかった。中国としては、経済問題について米国の非難がそれほどひどいものでなかったことだけで、もって瞑(めい)すべしといえる程度の会談であった。
少なくとも現在の小泉・ブッシュ関係においては、中国による対日内政干渉に米国が関与する可能性はないと考えてよい。
戦争の過去についての国際的な対日イメージで、日本に引け目があることは事実である。ただ、それは新しいことではない。六十年前に戦争に負けて以来のことである。
むしろ、昨年四月の中国における反日デモの後の米国の論調の中に、おそらくは戦後初めてといえるような、歴史問題における日本擁護論がちらほら現れたことの方が新しい現象であった。
日本に好意的な論調でも、「日本は過去を忘れてはいけないが」、と一言は言った上での場合もあるが、それが強調しているのは「それは六十年前のことであり、それ以降の行動については、日本よりも中国のほうが非難されるべきだ」ということである。
<<変わらぬ敗戦国の負い目>>
米国は自由な国であり、あらゆる歴史の見直しが可能な国であるが、米国以外に本格的に日本と戦った国として、中国、英国となると、戦勝国の権利は決して譲ろうとしない。
端的に言えば、「口惜しかったら、戦争に勝ってみろ」ということであり、もう少し丁寧な場合も、「貴方の国は戦争に負けたんじゃないですか?」ということである。 講和条約の年に入省して、四十年間敗戦国の外交官を務めたわが身の経験である。
普通、過去の戦争の結果は次の戦争で消える。冷戦で日本は西側メンバーとして勝っているが、それは戦争の犠牲を伴わない勝利である。また、その間の日本の立場は国内の左翼、平和主義の制約のもとで中途半端であり、その前の戦争を過去のものとするには至らなかった。
この負い目は、今後とも負い続けなければならない。総理が靖国に参拝したからといって、六十年前の負い目が解消するということはまったくあり得ない。
むしろ、この負い目を現実政治の武器に使っている国内外の勢力-むしろ国内勢力の方が、戦後いったん過去の問題となった問題をしつこく蒸し返した元凶である-の攻勢を勇気づけるだけで、なんら解決にならない。
日本は、サンフランシスコ平和条約で東京裁判の判決を受諾し、占領終了後も刑の執行の責任を果たした。法律の効果はそれで終わっている。ソクラテスは判決を受諾したが、判決の効果は彼の死で終わり、ソクラテスは悪人であるということを歴史の上で確定する効果などはない。
<<国家国民のため死刑受容>>
東京裁判は戦勝者の一方的裁判であり、瑕疵(かし)は拾えばきりもないが、東京裁判の裁判長ウェッブ自身の個別意見は歴史判断の参考になろう。
ウェッブは、ニュルンベルク裁判でナチスの指導者が死刑になっても、ヘスやデーニッツが死刑にならなかったのは、「彼らが戦争をしたときには、一般的に侵略戦争は裁判すべき犯罪とは考えられていなかった事実を考慮したもの」と考えられるとし、ドイツと異なる基準を当てはめないかぎり、「どの日本人被告も、戦争をしたことについて死刑を宣告されるべきではない」と言っている。
つまり、A級戦犯の死刑は間違いだと言っているのである。それでも彼らは絞首刑に処せられた。
戦犯は誰一人として判決の内容に納得していない。彼らは一貫して苦笑、冷笑した。にもかかわらず彼らは従容として死んだ。それは連合国には責任は感じなくも、国家国民に対する戦争責任を取るためであった。
たとえ身は 千々に裂くとも およばじな 栄えしみ世を 落せし罪は
東條英機元首相の獄中の歌である。靖国に詣でる人は自ら厳しく戦争責任を取った東條の心情を掬(きく)すべきである。
(おかざき ひさひこ)
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