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“アラブの春” 激動する中東

2012年11月12日


収まらない「アラブの春」


不安感が広がる「アラブの春」

 2010年12月、チュニジアで始まったアラブの春はまだ収まっていない。

 シリアでは反政府勢力の抵抗と政府の弾圧の間に激烈な戦闘が荒れ狂い、また、エジプトでは、選挙で選ばれたモルシ大統領の政府の政治的動向が見定めがたく、外交消息通の間で不安感が広がっている。

 これからどうなるのだろうか。何年、何十年先の長期的な見通しまで考えると、私は、今回のアラブの春は、19世紀ヨーロッパの政治進化の過程から言えば、フランスやベルギーに開明的立憲君主を生んだ1830年の革命のような中間過渡的なものと考えている。つまり中東の本当の政治的変革は、まだまだ、その18年後の、近代民主主義革命が達成された、1848年の革命の年を待たねばならないのであろうと思っている。

 

専制主義から自由主義へ


 当時の歴史を簡単に振り返ると、まずフランス革命とそれに続くナポレオン戦争という激動の後、王政復古、神聖同盟によるアンシャン・レジームの復活という反動の時期があった。それが覆って、自由主義が専制主義に勝利したのが、1830年の革命である。自由の戦士たちを率いる自由の女神を描いたドラクロアの絵はその時の情景を表している。

 ただし、1830年の革命は、フランスとベルギーでは、現在に至る新しい時代を開いたが、イタリアの諸都市国家、ドイツ諸国では、アンシャン・レジームを擁護するメッテルニッヒが率いるオーストリアの介入によって弾圧されている。ポーランドの反乱も空しく鎮圧された。ショパンが歌っているのは、その時の挫折感、絶望感である。

 

解放後ほとんどが独裁体制に


 ひるがえって、20世紀の中東情勢をみると、1950年、60年代は、第2次大戦後の民族解放の時期であった。

 植民地支配から解放された中東諸国は、それぞれの政治体制を模索したが、半世紀経ってみると、ほとんどが、多かれ少なかれ独裁体制となった。

 

権力交代の仕組みなし


 それは必然でもあった。列強の植民地分割によって、諸民族の自然な棲み分けなどおかまいなしに国境線を引かれたまま独立した新興諸国にとって、強力な中央権力の存在は国家の統一のためには必要不可欠であった。

 また、政治、社会、経済のインフラストラクチャのない所に、国家を建設するためには、中央主導の開発が必要であった。それがいわゆる開発独裁である。

 そしてそれは、自動的な権力交代の仕組みが備わっていないために異常に長く続いた。

 権力失墜まで、チュニジアのベンアリは24年、エジプトのムバラクは30年、リビアのカダフィは43年続いている。

 

改革が成功したチュニジア


 権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗するというのはアクトン卿の言葉であるが、こんなに長く続いては、権力の周辺に利権の集団が生まれ、それが腐敗することは避けがたい。

 それに対する不満が爆発してのが、今回のアラブの春であると言って正確だと思う。

 しかし、今までのところ、革命が成功したと言えるのはチュニジアだけである。チュニジアはもともと教育水準も高く、近代化一歩手前の国であり、穏健イスラム勢力を中心とする民主国家が安定しそうである。1830年の革命以来、今に至る政治制度を維持しているベルギーに比較できるかもしれない。

 バーレーンでは反乱は完全に鎮圧された。エジプト、リビアでは、独裁政権の打倒までは行ったが、その後事態がどこに収まるか不透明である。そして、シリアでは、内戦が荒れ狂っている。

 

見守るだけの「シリア情勢」


40年以上続くアサド政権

 国際社会が当面対処に苦しんでいるのは、シリア情勢である。シリアでもアサドの専制は父子相伝で、40年以上続いている。また、モスレム・ブラザーフッド(ムスリム同胞団)が主導するスンニー派勢力への弾圧も今回が初めてではない。

 シリアのバース党政権は、全人口の2割に満たないシーア派系統のアラウィ派が軍、警察、政府機関のポストを独占し、少数派のキリスト教徒や、財界人を利権構造の中に取り込んで、権力を独占している政権である。

 これに対するモスレム・ブラザーフッドの反乱も初めてではない。過去最大のものは1982年のいわゆるハマの虐殺である。人権団体などは虐殺された市民の数を1万人から4万人と推定している。残った町並みはダイナマイトで破壊され、その下に何人の市民が埋められたか知る由もないという。

 ニューヨーク・タイムズ紙の記者トーマス・フリードマンは、『ベイルートからエルサレムへ』という著書で洛陽の紙価を高からしめたが、その中で、「ハマの掟」として、砂漠では資源が限られているので、争いは、食うか食われるかとなり、また、砂漠では第三者の仲裁ということがあり得ないので、徹底的な殺し合いとなると言っている。

 

虐殺を座視できない米国


 シリア問題の解決について、欧米の論説は、反乱が終わったあと、超党派の政権が出来る保障が必要だなどと綺麗ごとを主張しているが、私はそれはシリアでは無理だと思う。

 アサド政権はいったん戦争に敗れれば、アサド一族だけでなくアラウィ派は皆殺しになると覚悟しているから、徹底的に戦い抜くと思う。

 一つの可能性は、アラウィ派の出身地は北部の海岸地帯なので、そこの山岳地帯に立て籠もるという選択肢はあるようである。隣のレバノンでは、オットマン・トルコの時代以来、マロン派のキリスト教徒が山の中に立て籠もってきたという例もある。

 米国は困っている。これだけの住民が虐殺されていることは、米国の伝統的価値観から言って座視するわけにはいかない。

 

内政干渉に反対の中国・ロシア


 リビアがそうだった。オバマ政権はアフガン・イラクに疲れて介入する気はなかったが、1993、94年のルワンダでは介入しなかったために100万人の虐殺を生んだ例が頭を去らず、アメリカの価値観として、カダフィ軍のベンガジ制圧によって再び大規模虐殺が起こるのを看過するわけにはいかなかった。

 そこで、介入はNATOとアラブ連盟を表に立てて、米国は空からの援護にとどめた。

 実はそれが大正解だった。一木一草なく、雲もない砂漠で、制空権がねければ、機動部隊も動けない。

 そしてベンガジを制圧できないまま経済制裁でじり貧となったカダフィ政権は崩壊した。

 しかし、より都市化しているシリアではそれは通じない。また、安保理では、中国、ロシアはもともと、自らチベット、新疆や、チェチェンなどの問題を抱えているので、国内弾圧に対する外国の内政干渉には反対であるし、特に、ロシアは国外の唯一の海軍補給基地であるタルトスがあるためにシリア制裁に乗ってこない。

 

援助が必要になる事態も


 日本もまた、何もできることはない。事態の推移を見守るだけである。

 アサド政権が倒れた場合、中東情勢に与える影響はかなり大きい。シーア派政権の崩壊はイランが中東に持っていた最大の拠点を失うことになる。レバノンで猛威を振るっているヒズボラも後ろ盾を失うことになる。

 ただ、ダマスカスにモスレム・ブラザーフッドの政権が出来ると、イスラエルは、エジプトとシリアの二つのモスレム・ブラザーフッド政権に囲まれることになり、中東の和平が予断を許さないこととなってくる。

 これは日本としても最大の関心を持って注視すべき事態であり、あるいは、シリア新政権の穏健化のために国際的経済援助などが必要となる事態も予想される。

 

重要視されるイスラエル和平


チュニジア騒動の影響でムバラク政権が退陣

 重要なのはエジプトの動向である。

 1979年のエジプト。イスラエル和平条約は、アメリカの中東政策の柱である。これはモスレム・ブラザーフッド(ムスリム同胞団)など、エジプトの国内国外の強い反対の中で実現されたものであり、サダト大統領はそのために命を落としている。

 

エジプトに初のイスラム系大統領


 現在、アメリカの対外援助全体の3分の1は、いずれも後進国ではないイスラエルとエジプトに与えられている。これは、以下に、エジプトによる対イスラエル和平がアメリカの中東政策にとって大事かを示すものである。この年間ほぼ15億ドルに及ぶ対エジプト援助は騒擾でいったん中止されたが、現在再開されている。

 エジプトでは、チュニジアの騒動の直後からタハリール広場に群衆が集まりデモが繰り返され、ムバラク政権は、遂に、国家権力を軍の最高評議会に委ねて退陣した。2012年に入って、人民議会の選挙が行われ、モスレム・ブラザーフッドを代表する自由と公正党が第1党となることが明らかになり、6月の大統領選挙では、初めてイスラム系を代表するモルシが大統領に選出された。

 

戦争の主力は常にエジプト


 モスレム・ブラザーフッドが多数を占めることに危機感を抱いた軍の最高評議会は、大統領選挙戦中から政府の権限を制限する政令を相次いで発出した。しかし、モルシは、大統領に就任すると、軍の人事を刷新し若手を起用して軍自体における自らの権力を確立しようとしている。

 現在、われわれにわかっていることはここまでである。4次にわたる中東戦争のアラブ側の主力は常にエジプトだった。そのエジプトがイスラエルと和平を結んだ結果、中東に40年の平和が保たれていた。その基礎が危ぶまれているのである。

 2012年には、エジプト革命の結果シナイ半島が無政府状態となり、ジハード系勢力が跳梁しエジプト軍兵士が殺害された。モルシによる軍の粛清はこの事件を機に行われたものであるが、その際エジプト軍は戦車をシナイ半島に派遣して反乱を鎮圧し、それがまたイスラエルを刺激している。

 

第5次中東戦争の可能性


 もし、エジプトが参加する第5次中東戦争(アラブ側では1982年のイスラエルのレバノン進攻を第5次中東戦争と呼んでいる由)が起こるとすれば、それはどこまで重大な事態に進展するか分からない。

 それにイランが、ヒズボラ、ハマスを通じて関与するかもしれない。あるいはイスラエルがこの機を捉えて、イランの核施設を爆撃、破壊するかもしれない。いずれにしてもイランも加わった大戦争の可能性がある。

 イスラエルが、エジプト、イランという中東の二大国と交戦状態に入るような状況はアメリカにとっては悪夢である。悪夢と言っているだけではすまない。どうしても避けねばならない事態である。

 

歴史の長い国を見守る


 私はエジプト勤務の土地勘がないので何とも分からないが、ここでは、ブッシュ政権時代、誰もが中東問題の教えを乞うたアジャミ・フアドの説を紹介する。

 彼は、イスラム政権が出現して、対米、対イスラエル関係を危うくするという危機感に対して、エジプトの伝統的なcivility、すなわち温和さ、権威に対する従順さを信頼して、まあ、成り行きを見るしかなく、落ち着くところに落ち着くだろうという楽観的な見通しを表明している。

 そう言えばエジプト以上に文明の歴史の長い国もないのだから、自ずから、他のアラブ諸国とは異なるものもあるのかもしれない。

 確かに、軍の中にも急進アラブ主義者がいても少しもおかしくはなく、モルシの軍掌握も可能かもしれないが、アメリカの軍事援助なしにエジプト軍が存立し得ないこともまた事実であり、そのあたりのことは皆分かっているのだろうと思う。

 

民主主義国間で戦争はない


強い基盤のサウジ王政

 私が、1980年代半ば頃、サウジアラビアに在勤したころは、サウジの王政がいつまでもつかが最大の話題だった。米国は、冷戦初期はリビアに大空軍基地を持っていたがカダフィの革命でそれを失い、また、イランの基地をホメイニ革命で失ったばかりであった。サウジは大丈夫かという心配であった。

 その時、私は賭けた。日本の自民党一党支配(当時は自民党の絶頂期と言われた中曽根政権)と、ソ連の共産党支配(当時は冷戦最後のソ連の脅威の時代)と、サウジの王政と、どれが20世紀まで生き延びるかという賭けなら、私はサウジに賭けると。

 私は単にサウジの王政の歴史的社会的基盤の強さを言いたかったのであるが、この予言は驚くほど的中した。

 ただ、その時に私は言った。もしホメイニ革命が終わって、イランが議会制民主主義国となったときは、湾岸の諸国はもろにその影響を受けて、サウジの王政の基礎も揺らぐかもしれないと。

 私は今でもそう思っている。20世紀が始まった頃、アジアには数えるほどしか帝国が残っていなかった。それは、日本、中国、トルコ、ペルシャであった。その後、日、中、土(トルコ)はそれぞれの形で近代化を達成したが、ペルシャだけ取り残されている。シャーの時にその一歩手前まできたと思ったが、ホメイニ革命でまた遅れてしまった。

 

次はイランの民主主義革命


 しかし、長い歴史と文化の伝統があり、国民の教育水準が高いイランでは、次の革命が自由民主主義革命であろうことは、十分に想像される。

 そして、それがサウジアラビアに至る湾岸諸国に及ぼす影響は甚大なものがあろう。それが私の言う、ヨーロッパ政治史との比較においては、1848年に欧州各国で起こった革命に匹敵するものであろう、と思っている。

 1989年、ベルリンの壁が崩れ、東欧諸国が一斉に民主化した後、政治学者のフランシス・フクヤマは、『歴史の終わり』を書いた。フクヤマによれば、歴史は、哲学者ヘーゲルの言う、正、反、合の法則で進歩するが、現在では、民主主義に対抗するイデオロギーが存在しないので、歴史が終わってしまったのである。

 

119カ国が民主化


 たしかに自由が守られているか監視する国際組織のフリーダム・ハウスの言うように、20世紀の初め普通選挙を行っていた国はゼロだったのが、東欧諸国の民主化、それに先立つラテン・アメリカ諸国の民主化、そして、台湾、韓国、インドネシアの民主化の後、その数は119カ国となった。

 この計算によれば、アラブの春は、少なくとも1カ国、チュニジアの民主化を達成し、おそらくは、リビアとエジプトの民主化も達成しつつあるのだろう。ただし、その後の中東諸国の民主化は、将来もう一つ大きな革命の年を必要としよう。その際目玉となるのは、イランであろう。

 話は中東からそれるが、将来の革命と言えば中国がある。今年は香港返還から15年になる。中国は返還後50年間の現状維持を約束しているので、香港の自由はあと35年の命ということになる。しかし、そのことを心配している人はあまりいない。むしろ中国本土の共産党一党支配があと35年続くと思っている人の方が少ないのかもしれない。

 

異なる文明間で衝突の可能性


 絶対権力は絶対に腐敗する、というのは薄煕来事件が如実に示してしまった。すぐに崩壊するとは誰も思わないが、誰も、あと35年もつとも思っていない。

 フランシス・フクヤマの第二のテーマは民主主義国間の戦争はないということで、戦争のない世界を予言したが、これに反論したのはハンチントンであり、異なる文明間の衝突の可能性を示唆した。

 それは中国文明と、イスラム文明に対する衝突であったが、20年経った現在、対中、対イラン関係において恐ろしいほど的中している。

 しかし、そのイスラム世界と中国の両方が民主革命を経て民主主義国家になった暁には、再びフクヤマの予言が当たるのかもしれない。

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