2014年3月10日
集団的自衛権をめぐる議論も最終局面を迎えつつあるようだ。
私はこの問題を40年来論じてきたので、今更付け加えることもないと思っていたが、最近、各方面から種々の質問を受けて、もう一度解明しておいた方がよい点があると思うに至った。
≪解釈は法制局でなく最高裁≫
一番多いのは、憲法改正が必要なのではないのですか、という質問である。
私は改憲論者である。占領軍が1週間で書き上げた英語の翻訳をいまだに日本国憲法として奉っている現状に満足できるはずもない。少なくとも前文には、日本の歴史、伝統を反映した日本自身の歴史観がなければならない。
ただ、こと日本の安全保障に関しては憲法問題はすでに解決している。
憲法問題について有権的解釈を下せるのは、国会でもなく、憲法学者でもなく、まして政府の一部である内閣法制局ではない。
それは、憲法に明記してある通り最高裁である。憲法を順守する以上、最高裁の解釈を尊重しなければならない。そして、最高裁の砂川判決は、日本が固有の自衛権を有することを認め、その故に自衛隊を合憲と認めている。 それはそうであろう。憲法9条の文面は軍隊の保持を禁止しているのだから、この砂川判決による憲法解釈がなければ、近代的海空軍では世界有数の優れた能力を持つ自衛隊が違憲になってしまう。そんな馬鹿な事態に何十年も堪えられるわけがない。日本の社会の良識はこれに対する法的な決着を既に与えているのである。
ところで、砂川判決の言う「固有の」自衛権とは何であろう。文字通りの意味は、「固々(もともと)有る」、ということである。
日本は国連憲章を憲法上の手続きに従って批准している。だからその規定は国内法と同じ権威がある。そこには、日本は独立国として固有の権利である集団的及び個別的自衛権を有すると明記してある。日本はこれを一言の留保もなく受諾している。
≪国連憲章は固有の権利明記≫
「固有」の意味を調べると、英文と同じく国連憲章の正文であり日本に対しても同じ拘束力を有するフランス語では、「集団的及び個別的正当防衛の自然権」と書いてある。つまり、「固有の権利」とは、国家というものが存在して以来存在する自然権と同義語であり、現行憲法や、明治憲法の前からもともと有る権利ということである。そして、最高裁判決は「固有の」という用語を用いて、それを確認しているわけである。 実は、日本が集団的自衛権を有するという点についてはもはや誰一人反対していない。ただ、憲法前文の平和主義の精神に則(のっと)ると、その行使には制限を加えるべきであり、それは集団的と個別的自衛権の間に線を引くべきだというのが、従来の法制局の解釈である。
しかし、先に述べたように、憲法に有権的解釈を下せるのは裁判所だけである。法制局ではない。
もし、この解釈を最高裁に持って行ったらどうなるであろうか。予想されるのは、百%否定されるということであろう。
刑法第36条には、正当防衛権として、自己または他人に急迫不正の危険が迫ったときに行使してよい、と書いてある。
≪権利あれば行使は当然だ≫
それは当然である。自分が攻撃されたとき守るのは当然として、妻や子が攻撃されても黙って見ていなければならないということは自然権に反する。さらに、この刑法の規定では、赤の他人のためであっても、正義のためには暴力を振るうことも許されている。
自衛権を、自国の防衛だけに限るということは、刑法上の概念でいえば自分の妻子の安全も見捨てろということであり、最高裁がそんな粗放、軽率、非常識な判決を下すはずがない。 もし、憲法前文の平和主義の趣旨に沿って、自衛権の行使に一線を引くのであれば、集団的、個別的両方の自衛権について、過剰防衛と正当防衛との間に厳しい線を引くべきであろう。
なお、余白があるので説明すると、現在、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が行っているケース別の検討は、例示のためである。こんな時に集団的自衛権を使えないと困るでしょう、ということを例示するためである。
この場合なら現地の司令官が武力を使ってよい、という裁量権を与えるためでは絶対にない。
鉄砲を一発撃つということは往々にして、国家の命運に関する。
それはあくまで最高司令官つまり、首相が国民の安全、国家の将来を熟慮して決めるべきものである。現地の司令官は真に急迫不正な場合はやむを得ないとしても、その場合でも、その後の対処については、直ちに首相の指示を仰がねばならない。
ただ、その首相決断の際に、「権利はあるけれど行使できない」などという小理屈が国家の将来のための正しい判断を阻害しなければよいのである。
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