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小村寿太郎の“功罪”とは

2009年12月1日


 小村寿太郎ほど、一見、その功罪がはっきり論じられる政治家、外交官も少ない。

 日露戦争で、地上戦を決した遼陽の会戦ではロシア側23万人に対して日本側13万、奉天の大会戦では、ロシア側32万、砲1200門に対して、日本側があるだけ集めて25万、砲990門であり、弾薬量はロシア側が圧倒的に優勢である。

 無謀とも言える戦闘であるが、時間がたてばロシアはシベリア鉄道で輸送してきてもっと増えるから、日本としては決戦を挑む以外に選択肢が無かった。これを見るだけで開戦の時期が日露戦争に決定的な影響を与えたことがわかる。

 もし開戦がひと月遅れていたならば、日本軍は遼陽までも行けなかったかもしれない。鴨緑江の対岸のロシア基地の要塞化が進んだだけで満州に入るのも難しかったであろう。その間築城を続けた旅順を落とすのに6万の死傷者を必要としたことを見てもわかる。

 これはギリギリ間に合うように開戦を早めたのは小村の功績である。

 北清事変を奇貨として、ロシア軍が満州に進撃するが早いか、小村はロシアによる満州占領は不可避と判断し、ヤルタの保養地まで行ってウィッテに満韓交換論を提案する。

  ところが、ウィッテの反応は、一言で言えば、ロシアは日本が同意しようとしまいと満州は自力で取れる。韓国との交換など必要としない。満州を取った後は、次は朝鮮半島だから、今から譲る気はないということであった。

 重臣たちは戦争直前まで満韓交換に希望を託したが、その4年前の時点で、小村は早くも、満韓一体論、つまりロシアに満州占領を許せば、次は朝鮮を取りに来る、したがって、満州を守るしかないと見極めて、極東ロシア軍の戦備が整わないうちにこれを撃破する早期開戦を主張し続けるのである。

 小村の思惑通りならば、1903年11月ロシアが北朝鮮に入った時にもう開戦であったが、明治天皇、重臣たちの慎重論を克服して開戦するまで更に3カ月を要した。それでもこのようにギリギリのタイミングで開戦出来たのは、小村の働きと言って良い。

 他方、小村の罪はすでにポーツマス条約交渉の時に兆している。

 ローズベルトは、小村に対して妥協による講和を説いたが、小村は言うことをきかない。かえって、東京に、「領土と賠償という目的を達成できなければ戦争継続を決断するほかない」と意見具申の電報を打つ始末である。そこでローズベルトは金子堅太郎を通じて日本の首脳にい直接訴え、閣議では小村の意見具申は斥けられて講和が受諾された。

 戦争継続を叫ぶ国民の怒りを覚悟の上で甘んじて平和を達成した英雄というのは戦後の日本の平和主義が作り上げた虚像である。彼は終始タカ派中のタカ派であった。ただ、まるでハト派の代表のように世論の非難を浴びながら、死ぬまで一言も弁明しない男らしさが彼の真骨頂である。ただ、ポーツマスでは小村は元老と軍に抑えられて、無念の涙をのんで講和条約を受諾しているので、国に実害を及ぼしていない。

 しかし、小村が日本の将来を危うくする行動をとるのはその後である。ハリマン提案をつぶした経緯については、今や中高の教科書にも出ているのでここで詳説はしない。

 ただ、もし日本がハリマン提案を受諾していたならばどうなっていただろうか。

 小村の生地飫肥(おび)には小村記念館がある。そこに戦前に建立された石碑の拓本か写真が展示されているが、その碑文は、もし、あのときにハリマン提案を日本が受けていたらば今の満州国はなかったであろうと、小村の先見の明を称えていたと記憶する。

 人間の評価は棺を覆うて定まると言うが、死後20年以上を経て評価されれば以て瞑すべし、とも言えようが、その評価は敗戦で逆転する。しかし、私は20年後の評価でも誉めすぎと思う。それで良かったのは日本にツキがあったからに過ぎない。

 ロシアはその後、ドイツとの死闘と革命で、日露戦争の復讐どころではなくなってしまうが、もしロシアが再び攻めて来た場合―ロシアのバルカン進出の歴史を見れば、必ず失敗を取り返しに来たと思う―満州にアメリカの利権があれば、日本は日英同盟に加えて、アメリカの協力も期待できた。

 それより興味深いのは、もしアメリカが満州に利権を持ったならば、どうなったかである。当時はセオドー・ローズベルトの帝国主義時代である。満州を足場として、日英同盟と協力して中国の利権獲得に乗り出していた可能性は大きい。日露戦争後、米国は日本の満州独占を排除しようとして、多数国の借款団を提案するが、それは中国の門戸開放という建前よりも米国の進出のチャンスを求めていた面が強い。

 そうなれば1930年ごろから国民党政府が満州の国権回復運動を始めた時は、既得権益保護は日英米の共通政策となっていたであろう。第一次大戦後日英同盟の仮想的はロシアでなくなり、1920年代には中国の国権回復運動から両国の既得権益を守ることが共通課題となっていた。そういう状況では、米国も日英同盟の廃棄要求は必要なくなるわけである。

 その結果世界はどうなっていたであろうか。日英同盟が続いていたかぎり、大東亜戦争は無かった。英国が香港を返還したころに日本も遼東半島を条件付きで返還したこととなっていたかもしれないが、アジアの解放は半世紀遅れたこととなっていただろう。

 そこまで考えると、歴史上の個人の功罪を考えることの空しさがわかる。

 小村の功罪を論じることから始めた論文ではあるが、ここまで考えると、歴史とは、各民族、各個人が、その時代を生き抜こうとして行った必死の努力の積み重ねによって生じる流れであり、その是非善悪など論ずることはおこがましい、と思わざるを得ない。

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