2007年4月 8日
これは核戦略序論である。 昨年安倍内閣が発足して以来、日本の核武装論議―むしろ、その前段階である、核武装問題を論ずることが許されるかどうか―が問題として浮き上がってきた。 しかし、私は今までそれを論ずることを躊躇してきた。一つには、それが本論の結論ともなるのであるが、まだそれほど急いで考えなくてはいけない問題ではない、という基本的な判断がその背後にあった。 ただ、それよりも、冷戦時代、世界中の俊秀が競って展開した精緻な核戦略論の膨大な蓄積を前にして、後世の批判に堪える核戦略を書くということは相当準備がいるし、また、それは、戦略論だけでなく、技術論としてもしっかりしたものでなくてはならないと思うと、私はまだその準備が出来ていないと思ったのである。 しかし、国際情勢と戦略を常時考えなくてはならない立場上、将来の日本の核戦略論の大きな輪郭についての考えは持っていた。おそらく、将来、核戦略を本格的に論ずるか、あるいは誰かにそれを依頼することになれば、それが骨格になると思う。ということで、ここで、この場を借りて、それを核戦略論序説として書いてみたいと思う。 まず、日本の核武装論は、日米同盟の枠の中で考えなければならない。 現在の日本の核論議の中には、「このままでは、日本はいつまでたってもアメリカの属国だ。真の独立国になるには核武装しなければならない」という議論がある。 この議論はそこから一歩論理を展開しようとするとたちまち行き所がなくなって支離滅裂となる。日本が所有できる数発の原子爆弾をもつことで米国から真に独立できるという戦略論もシナリオも到底考えられない。 また、日米同盟を切って、米中露の核大国の谷間にあってどうやって国民の安全と繁栄を維持するのかシナリオがかけない。単なる欲求不満の感情的表現と考えるべきであろう。 そもそも米国からの独立を言うのならば集団的自衛権を認めて平等の負担をしてからの話である。すねかじりの息子が、自分用の車を別に欲しいとわがままを言っているような話である。 国家戦略の究極的目的は日本の国家と国民の繁栄と安全を守ることにある。日本の核武装論は現にそれを守ることに成功している日米同盟の枠内で考えねばならない。
安全の概念の中には国家としての自由と独立も含まれる。独立と言っても、ちょっとアメリカに肩をそびやかせてみて独立と言うなどという甘っちょろい話ではない。冷戦時代にソ連に占領されれば、民族の自由も独立もなくなった。北朝鮮の脅迫に屈しても日本の国家としての自由は失われる。そういう国家としては根源的な安全の概念である。 いずれにしても核武装を考える場合、世界最大の核保有国である米国との関係は考えなければならない。北朝鮮、イランのように米国が反対する核武装の形もあるが、それを日本が選択することは国民の利益にとって破滅的である。米国の戦略の一部として容認されている核武装としては、英、仏、イスラエル、インドがあるが、その中で米国の同盟国は英仏であり、これが参考になろう。 英国の場合は米国との関係において問題ほとんどゼロと言って良いケースである。もともと英国系学者も開発に参加していたし、当時のチャーチルとアイゼンハワーの関係から言っても問題なかった。 また、その背後には20世紀100年間を通じての、米国との協調を国是とする英国の外交があり、数多くの問題を乗り越えて、常に結果としては、米英一枚岩であることを実証して来た。つまり、少なくとも核の使用を迫られるような、国の命運に関する問題においては、米英両国の戦略の間にいかなる齟齬も無いという前提の下の英国の核武装である。 フランスの場合、米国は終始反対であった。ただ、1980年代初頭、ソ連の脅威が最も大きかった時、米国政府の公式の態度ではないが、米国の軍事専門家の間で、フランスの核はソ連の計算を複雑にさせる効果があるという肯定的な評価を聞いたことはある。 日本の場合に例えて言えば、中国が尖閣列島を攻撃した場合、アメリカが核で応戦することは考えられないが、日本の場合、世論に押されて、ひょっとすると使うかもしれないという惧れが中国の計算を複雑にさせ抑止力となる、という理論である。 ただ、フランスの場合といえども抑止力の大本は米国の核の傘に頼っている。つまり、相手の計算を複雑にさせる程度のマージナル(二義的)な抑止力である。また、尖閣ぐらいでは、日本であっても核を使うとは中国も予想しないとすれば、ますますマージナルな抑止力となる。 また、フランスは北大西洋条約機構(NATO)の同盟国であり、キューバ危機の時はドゴールが率先して米国の行動を支持している。その点、集団的自衛権も行使せず、冷戦を通じて中途半端な同盟国であった日本とは、同盟国としての信頼関係が違うことも認めざるを得ない。 結論として、私は日本が核武装をするとすれば、目指すところは英国型が理想だと思う。そのためには、2000年のアーミテージ報告が明快に提案しているように集団的自衛権の行使を認めて、日米同盟を米英同盟に近づけることが先決であると思う。 その場合でもどこまで戦略的必要があるかどうかは極めてマージナルな問題と思う。米国が日本に対する攻撃は米国に対する攻撃とみなすと言い続けている現状では、ますますマージナルとなる。 むしろ、日本自身の核戦略論とはやや異なる外交戦術論ではあるが、米国にそれを言い続けさせるために核武装を論じるという間接的な効果の方が意味があるかもしれない。 また、非核三原則を見直して核の持ち込みを容認すれば、1983年末からのパーシング2の欧州持ち込みと同じように、ますます米国のコミットメントを強めることになろう。 あとは、初めの問題意識に戻って国民感情の問題であろう。それは米英同盟並みの関係となってからの話であるが、日本世論は圧倒的に核武装を支持し、アメリカとしては日米同盟を失うか、核武装を許すかの選択となれば、日本の核武装を認める可能性があるのはこれまた米英関係と同じであろう。ただ、今でも核アレルギーが強い日本で世論がそこまで変わるという可能性は、極めて小さいのであろう。
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