【正論】真珠湾への道 日米開戦65年(2)元駐タイ大使・岡崎久彦
2006年12月02日 産経新聞 東京朝刊 掲載 岡崎久彦
■非凡な2人が切った片道切符
<<引き返す機会>>
どうしてああいう戦争になってしまったのだろうか。何時から引き返せなくなったのか、この問題は繰り返し問い返されている。
対華二十一カ条要求からのち日中関係は引き返せなくなった、という人も居る。しかし、二十一カ条要求の後でも孫文が希求したものは不平等条約の改正であり、明治初年以来日本がそのために営々と払った努力を考えれば十分理解できる話である。後に外相だった幣原喜重郎が日本から率先してこれを提唱した時は中国の国民感情は一転して親日的になっている。
満州事変以降は日中衝突路線という人もいるが、満州事変は一応塘沽停戦協定で終わっているし、その後で英国が日英共同での中国支援を提案したリース・ロス協定に日本が参加していれば国際的にも実質的に解決していた。
三国同盟はたしかに百害あって一益ない同盟だった。しかし、廃棄するチャンスは2度あった。
<<昭和天皇は英米派>>
まずは防共協定から始まるが、ドイツは反共の協定をつくっておきながら独ソ不可侵条約を結び、時の総理大臣平沼騏一郎が「欧州情勢は複雑怪奇」と言ってやめてしまうのだから、十分廃棄の理由はあった。同盟が成立してからも、日独ソの3国で世界を分割するという誇大妄想的大戦略で、外相の松岡洋右が同盟国歴訪から意気揚々として帰って来ると独ソ開戦になる。その時も政府部内では条約廃棄論があった。
それでは何時から事態が取り返しが付かなくなったのだろうか。私の考えでは2つしかない。
それは日英同盟廃棄と真珠湾攻撃である。しかも、それをしたのは、私が近代日本で最も敬愛する2人の人物、幣原喜重郎と山本五十六である。その2つのケースとも、この2人だからできたことであり、当事者が、凡庸とまで言わなくても普通の能力の人間ではとてもできなかったことである。
もし日英同盟が存続していたら、昭和期の日本の外交は全く変わったものとなったであろう。昭和天皇も、西園寺公望などの重臣たちも、そして海軍の主流も英米派である。いくら陸軍の革新将校たちがはね上がっても、日本の外交の方向を変えるのは不可能で、三国同盟などは問題外であった。
その結果中国、インドにおける日本、英国の覇権はそのまま温存され、民族解放は半世紀は遅れた可能性がある。他面、日本は第二次大戦の局外に立ち、第一次大戦のときがそうであったように、再び経済的に莫大(ばくだい)な利益を受ける機会を与えられたろう。
もし幣原喜重郎という当時の日本として稀(まれ)な外交官がイニシアチブを取って代案を作ってこれを破棄していなければ、英国はとうてい自分からは破棄を言い出せなかった。また、当時の英米の実力関係からいって、英国は必ずしも米国の言う通りにする必要もなかったので、中途半端な形にはなったかもしれないが、昭和前期を通じて日英協調が日本の外交の基調であり続けたことは間違いない。
<<攻撃の重いツケ>>
もう1つの真珠湾攻撃は、国民にあれほどの惨禍をもたらさない形で戦争を終わらせる可能性を全く封じてしまった。戦時中、チャーチル英首相が日本に名誉を残す形での戦争終結を提案した時、ローズベルト米大統領は日本には(真珠湾攻撃の後では)残さるべき名誉はもうない、と言ったという。
ベトナム戦争が終わって数年たってから、私は戦争指導者の1人であったグエン・コー・タックに会った。彼は「あの戦争は楽な戦争だった。われわれはアメリカと戦っていればよかったがアメリカは国内世論との両面戦争をしなければならなかった。われわれはアメリカ兵を殺し続けていればそれで良かった」と語った。私が「アメリカは硫黄島で2万の海兵隊員を失った」と言うと、彼は「2万人!」と言って絶句した。明らかに彼の頭の中では「なぜ、それで日本は勝たなかったのか」という疑念が駆け巡っていた。
日本が普通の戦争の作法に従って、48時間の期限付きで石油封鎖解除を条件として宣戦を予告していれば、あるいは、戦争はなかったかもしれない。
イタリアがエチオピアに侵入して国際連盟が石油禁輸を考えたときに、ムソリーニ伊首相が「石油禁輸は戦争を意味する」と言っただけで取りやめになったこともある。
当時のアメリカ議会の反戦機運を考えれば十分そのチャンスはあった。通告を攻撃の30分や1時間前にしても、そんなことは「だまし討ち」の批判を封じるには役に立たない。ハル・ノートの発出前に連合艦隊がエトロフを出撃していることさえだまし討ちの理由にされているのである。
無理に戦争に持ち込んでも、硫黄島で2万人、沖縄で5万人の損害が出たときには、戦争の原因が石油禁輸にあることを知っているアメリカ世論はとうてい戦争支持を続けられなかったであろう。
硫黄島の戦士の英雄的な戦闘は本土の日本人が戦争の惨禍を受ける前に戦争を終わらせた可能性が十分あった。しかし真珠湾攻撃があったために、それが広島、長崎の原爆、ソ連の参戦の口実にさえなったのである。
<<大河の如き流れ>>
この真珠湾奇襲も周囲の反対を押し切って山本五十六が決したものである。通常の提督が決断し得るものではなかった。幣原喜重郎と山本五十六、この2人は昭和史で最も傑出した人物であり、私の最も好きな人である。また当時としてはアメリカというものを最も良く理解していた人物である。
その2人が、他の凡百の人々にはない個人的能力を発揮したことが、日本をあの悲劇的な戦争に導き、しかも国民が徹底的な惨禍を受けるまで終わらせる方法をなくしてしまったのである。その後近衛文麿、東条英機たちのやったことなどは、時流に押し流されて、その場その場で、平凡人ならそれしかできない判断を積み重ねただけである。
歴史学の泰斗ランケは言っている。「皆さんは歴史から教訓を得ようとしている。私はそんな大それたことは考えていない。ただ、歴史の真実を追究しているだけだ」
歴史は、その時々の国民、政治家がそれぞれの立場で心血を注いで決断してきたことの積み重ねであり、大河の如き大きな流れである。その是非善悪を論じるが如きはわれわれの成し得る業ではない。歴史を論じるに際してなによりも必要なのは謙虚さである。
(おかざき ひさひこ)
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