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私の書き残して置きたいこと

2009年3月 1日 17:16


 何か一つ書けと言われても外交官時代の思い出は数限りないので迷う。それでもこれだけは書き残して置いた方が良いと思う話の一つを書かせて頂きたい。

 ほぼ20年前のこととは言え、まだ関係資料は未公開であろうが、当時すでに新聞では報じられていた事実であり、実質秘にあたるようなことは書かれなくて済むと思う。

 

 湾岸戦争に際して、自衛隊を国際協力に参加させる必要を指摘する声が高くなり、政府も後にPKO法案となる国内法整備の検討に入った。

 当時私はタイ駐在の大使をしていたが、東京から訓令が来た。日本によるPKO法案整備について、近隣諸国の意見を求めるための特使派遣を考慮しているので、タイ政府による特使受け入れの可否を打診せよということであった。

 この訓令はASEAN6カ国と中国、韓国宛てであり、職務に忠実な、私以外の7カ国の大使は、いずれも、ただちに先方に打診して受け入れ可能を回電した。

 しかし、私はどうも釈然としなかった。法案通過後その説明のために特使を派遣するなら解る。しかし法案未通過で原案も未確定な時期に他国の意見を求めるのは常識では考えられない。まして当時の中韓に意見を求めるということは、法案を事前に廃棄するのに等しいではないか、と思った。また、そんなことをすると、その後、我が国の安全保障に関する事案について一々中韓の意向を聞く先例にならないか、と思った。

 大使館の部下は、「タイだけ返事が遅れています」と言って心配して呉れたが、私は、まず、時間を稼いで状況を見極めようとして、訓令に種々反論を試みた。

 

 あの時にどんな理屈をこねたか、今となっては、詳しいことは覚えていないが、あとで聞いた話では、私の議論の中で、特命全権大使を任命して置きながら別に政治家の特使を派遣するのは悪い前例とならないかという論点は、外務官僚の矜持の琴線に触れるものがあって、意外に好評だった由である。

 その間東京の事情を知ろうとして、椎名素夫議員と連絡を取ろうとしたが、東京に不在という。やっとワシントンの宿舎に深夜電話が通じた。椎名氏は直ちに事態の重大性を覚り、東京の各方面に働きかけて呉れた。そして結果としては藤尾正行前政調会長が外務省を訪れて厳重に抗議をし、本計画は沙汰やみとなった。

 当時のマスコミは事情を全く知らず、中国派遣特使として加藤紘一氏の名があったことを取り上げて、特使の人選が広池会に偏したことを、清和会の藤尾氏が咎めたものと報じたものもあったという。こんな重大の国事に関する当時のマスコミの認識はこの程度の卑小なものだった。

 中には、風聞で、ワシントンから電話による介入があったと伝えるものもあった由であるが、これは真実のごく一部には触れているわけである。

 

 今になって思っても、もし安全保障問題については近隣諸国の意見を聴取する前例が出来てしまったとすると、その後の日本の外交安全保障政策は、どうなってしまっていただろうと、悚然として肌寒くなる。

 それは教科書の近隣諸国条項問題と相通じる発想であり、安全保障問題にもそれが及んで定着する可能性は十分にあった。

 現に、それから数年経って、私の引退後であったが、憲法問題について、議会の事務局から、非公式までも行かない雑談程度ではあったが、「憲法改正の審議に中韓の代表を招待することにしてはどうか」という、打診を受けたことがある。同じような発想が憲法にまで及ぶ可能性があったのである。

 その時は、「結構である。ただし、国家間は主権平等である。今後中韓が自国の憲法を論じる場合は日本からの意見を尊重するという条件つきなら良い」と答えたことがある。

 日本についてだけは主権平等を認めないという風潮が、敗戦後半世紀を経て、当時まだ日本人の間にあったのである。今の若い人には、信じられない昔話であろうが、その当時の風潮が衰えたりとはいえ、処々にまだ残っていて、悪影響を及ぼしていることには警戒を怠らないで居て欲しいと思う。

 

 もうこの話を知っている椎名氏も藤尾氏も故人となった。私も記憶と伝聞に頼っているのであるいは不正確な点があるかもしれない。これも確認はしていないが、藤尾氏申し入れの際、同席したのは、のちの駐米大使、加藤良三総務課長だったと聞いているので、同氏ならば、あるいはその間の事情をご存知かもしれない。

 私としては、40年もお国の禄を食んで、あまりお役に立てた記憶に乏しいが、この事だけは、ほんの少しは、お国に借りが返せたかなと思っている。

 

『霞関会会報3月号』p.9-10

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