2009年7月1日
北朝鮮が五月二十五日、二回目の核実験を強行しました。長距離弾道ミサイル発射に次ぐもので、世界の平和と安全に挑戦する行動です。オバマ米大統領は、「北朝鮮の行動は北東アジアの人々を危険にさらすものだ。米国と国際社会は行動を起こさなければならない」として、対抗措置を検討する考えを示しました。
北の核開発が問題なってから今までの米朝交渉には、大きく言って二つの型があります。
一つはクリントン政権時代の枠組み合意です。その基本的情勢判断は当時の文書を見れば明らかな通り、軍事的衝突は百万近い犠牲者を出す恐れがあり、この際妥協しかないということであり、妥協の内容は、大筋では、北は寧辺の核施設の稼働をIAEA(国際原子力機関)の査察の下に凍結し、見返りとして重油などの経済的利益の供与を与えるというものであって、北は一九九四年から二〇〇二年までこの妥協を履行しています。
もう一つはブッシュ政権になってらの北を悪の枢軸と呼ぶ政策であり、理論的には、北の崩壊を予想しないと成立しない政策でした。そして北のウラン濃縮疑惑を理由として枠組み合意を中断しましたが、結果として、北は崩壊せず、寧辺の核施設を稼働して、二〇〇六年には第一回目の核実験を行いました。
その意味でブッシュ政権の政策は失敗でしたが、成功の可能性がなかったわけではありません。核実験後、日米は北に対して厳しい制裁措置を執り、北は忽ち困窮しました。それをもう一年続けていたならば、今度は、クリントン時代のようなアメによらず、ブッシュ政権本来の政策であるムチによる譲歩獲得も可能だったかもしれません。
しかし、米国務省が、同盟国日本に協議出ず、制裁の果実を過早に収穫することに走ってしまったのです。
そして、金融制裁解除、テロ国家指定解除などの代償を与えて、その結果、寧辺の施設を一部破壊させましたが、今や北はその修復を宣言しています。つまり今となって見れば、まったく不必要な代償を与えたうえで、クリントン政権の枠組み合意前の状況を、次の政権に引き継ぐこととなったわけです。
今後、修復をやめさせるためには、少なくとも油か金の代償を要求されることは目に見えています。しかし、それでもすでに生産したプルトニウムは廃棄しないでしょうから、これ以上の生産にストップをかけられるというだけになります。その上に、新たにウラン濃縮による核兵器生産を始めている可能性もあります。
実は過去の米朝交渉で最も成功したのは、一九九八年から九九年にかけての元国防長官ペリー氏の交渉です。それは地下の核疑惑施設の現地査察とテポドン発射の自主規制を実現させ、与えた代償は、枠組み合意の継続の他は若干の人道的援助だけでした。
それよりも特筆すべきは、交渉にあたって、ペリー氏は同盟国たる日韓との完全な合意を前提条件とし、繰り返し日米韓三ヶ国の協議を重ねた上で、三ヶ国の政府が承認する共同提案を北に提出し、この成果を勝ち取ったことです。
日本側の代表だった、後の駐米大使・加藤良三氏は今でも最も成功し、日本にとって最も満足な交渉だったと懐かしく追憶しています。
今後の問題として、六カ国協議を再開することには意義はありませんが、ただ、外交の実務に携わる者が誰でも知っている一般的原則として、多数国間会議よりも二国間協議のほうが、実質問題の解決に適しています。
今後、日韓両国と完全な協議のうえでの米朝二国間交渉に期待したいと思います。そこで私には提案があります。
日朝正常化が実現すれば、北は一九六五年の日韓正常化の際の総額五億ドルの補償に相応した補償を日本に求めるでしょう。
南北の人口、面積の格差もあり、その後の貨幣価値に変動もあるので、額の算定はその時の交渉如何であろうし、日本政府は、その額を明言したことは一度もありませんが、それは今まで米国が与えた譲歩とは桁の違うものであり、核全廃の代償となりうる額と想定されます。
私の提案はこれを日米同盟の共同財産とすることです。すなわち、日米による北との正常化交渉を一体化して、核計画の全廃と拉致事件の完全解決を一歩も譲れない条件として、米国が日韓両国を代表して交渉を行うということです。
韓国は米朝、日朝正常化の最大の利益関係者であり、また日韓正常化の際の補償との均衡の問題にも関心があるでしょうから、参加は当然です。
それだけ明確かつ大義名分のある目標があるならば、その実現まで、今回の核実験、ミサイル発射を契機として、いかなる厳しい制裁であっても、これを実施し継続する正当な理由があります。そしてまたそれは、日米の対北朝鮮戦略に一貫性を持たせることとなります。
北は反発するでしょうが、軍事面では、北の通常戦力は弱体化し、核、ミサイルはまだ開発中と想定されるので、当面はこれに対抗する戦略は持ち得ないと考えられます。
さて、もっと根本的に日本の安全を守るために、わが国が今すぐにでも実施しなければならないことは、集団的自衛権の行使です。国際的に「集団的自衛権」とは、他国に対する侵害を排除するための行為を行う権利です。
国連憲章では、「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的または集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(五十一条)としています。
私が集団的自衛権の問題を取り上げて以来、もう四十年近くになります。もちろん、その前からも先人たちの努力があり、その間限りない挫折を繰り返しているうちに、それを取り巻く景色が変わってきたような感があります。
世論は変わりました。今なら、麻生総理が平然と「集団的自衛権は行使すべきだ」と言っても、世論の反発は皆無です。
もともとこの問題は常識の問題です。かつてフランスの国防次官訪日の際、私は、「日本海で米艦と自衛艦が並走していて、自衛艦が攻撃されれば、米艦は直ちに救援するが、米艦が先に攻撃された場合、自衛艦は何もできない。それが集団的自衛権の問題だ」と説明しました。いかにも頭の切れるエリートらしい彼はこう言ったのです。「理論は分かる。しかしそれは現実の世界、リアル・ワールドでは存在しえない問題である」と。
自衛艦は当然同盟国の軍艦の救援に駆け付け戦闘に従事する、彼は考えたのです。それが常識です。同盟国米国の軍艦が沈められるのを、自衛艦が手をこまねいて見ているわけにはいかないと誰もが考えるでしょう。
もし、自衛艦があえて米艦を救援すれば、その結果、どうなるでしょうか。刑法上は何の問題もありません。刑法第三六条は、「急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為は、罰しない」と記しています。
問題は自衛隊関係の法令に違反しているかどうかですが、違反の法的根拠が集団的自衛権行使禁止である場合、憲法裁判に持ち込まれると、処罰する政府側の立場は弱い。憲法の規定に明示的な法的根拠があるわけでなく、内閣法制局の憲法解釈があるだけだからです。
憲法の有権的解釈権は政府でなく裁判所にあります。裁判所はすでに日本は独立国として固有の自衛権があると認め、自衛隊を合憲としています。
祖の自衛権を個別的と集団的の二つに分けて後者の行使を禁じるなどという、世界で類例のない、粗放、大胆不敵な判断を最高裁が下すはずがありません。個人の正当防衛券に当たる者が国家の自衛権であると類比すれば、法哲学の考え方の帰結は明白です。
もともと非常識な話なのです。権利があって行使が出来ないなど、ばかな話はありません。集団的自衛権は、憲法の規定にのっとって国会が批准した国連憲章、平和条約に明記してあるのですから、憲法の国際条約順守義務に従って国内法上の権利です。麻生総理は前から一貫して現行解釈はおかしいと発言しています。
景色が変わってきたもう一つの理由は、日米同盟の重要性の認識が深まったことです。三十年前は、それこそ「同盟」という言葉さえ使えませんでした。今は、種々の世論調査の結果に出ている通り、国民の間で日米同盟の重要性の認識は完全に定着しています。
そして同盟維持強化のために集団的自衛権行使が必要なことも公然と指摘されるようになっています。米国は初めは遠慮していいまでせんでしたが、二〇〇〇年の「アーミテージ・ナ報告」、最近ではマイケル・オースリン氏(米研究所員)などの知日派の論説の中で当然のことのように指摘されています。
特にオバマ政権が出来て以来、この前の民主党政権であるクリントン政権第一期の日米摩擦の記憶が蘇り、日米同盟の維持、強化が課題になっているときでもあり、米国は努めて親日的態度を示してくれています。
それなら日本側は何をしてくれるのですかと問われた場合、本命は、どうしても、集団的自衛権の行使となります。それ以外はその場しのぎの措置でしかありません。
それではどうすれば良いのでしょうか。今まで私が想定していたシナリオは、特命委員会の答申を受けて、政府が新たな解釈を闡明して、政府答弁を修正する。それから、当面の必要のために無理して自ら手をしばった法令もあるので、漸次関係法令を改正していくという手続きです。しかし、最近、村田良平元外務次官の論を読んでハタと感じるところがありました。村田氏は、「日本は集団的自衛権を保有している。しかしその行使は慎重であるべきであり、最終的には総理大臣たる自分が判断すると述べ、もし法制局長官が異議を唱えれば、辞任を求めるべきだ。憲法上、日本の総理はその権限を持っている」と記していますが、もし総理がそう決断されるなら、それが良いに決まっています。ただ、その際、関係法令改正は可及的速やかに行うと述べておくことも重要です。
さきに述べたように、いざという時に現地の部隊が集団的自衛権を行使しても、裁判所が違法と判断する可能性はほとんどありません。ただ、戦闘というのは、日頃あらゆる想定の下に、訓練を重ねておいて、初めて、実戦に役立つものです。アメリカにしても、いざとなれば何とかします、と言われただけでは、同盟間の戦略戦術が成り立ちません。原則として権利行使可能と宣言したうえで、法律はいつか改正されるという見通しを与え、改正された場合に備えて、実戦の訓練をしていく必要があります。それが裁判沙汰となれば、究極的には無罪になることはすでに述べたとおりです。
もう動きだす時は来ています。理論的な反対は、時を追って一般の支持を失っています。
集団的自衛権の行使に憲法改正は必要ありませんし、いざというときは、グアム向けのミサイルを打ち落とし、米軍への攻撃があった場合は助けるべきです。訓練などは防衛大臣の命令一つで実施でき、将来の備えとなるのですから、腹を決めてそこから始めるべきです。
麻生総理は以前から一貫して、「集団的自衛権の解釈は変えるべきだ」と言っています。この姿勢を貫き、持論を繰り返し述べてもらいたいと思います。
自衛隊は一端有事の際は集団的自衛権を行使する覚悟で準備をしていくべきです。そうでなければ同盟は保てないのです。さて、私は以前、冷戦終結後の日米関係と十七世紀の英蘭関係との類似に注目して、「繁栄と衰退と」という本を書きました。国家の存亡をかけたスペインとの戦争に勝ったイギリスは、その間、オランダにイギリスの経済利益が浸食されているのに気づき、オランダを蛭、吸血鬼と呼びました。「冷戦は終わった。その勝利者は日本だ」という冷戦直後のアメリカの認識とまったく同じです。
その際、イギリスが施行した航海条例はオランダを戦争に追い詰めるのが目的でした。オランダがそれを生き延びる唯一の方法は隠忍自重して妥協を重ね、イギリスの有権者の善意に訴えて戦争を避けるしかなかった。当時のイギリスの一部には、アメリカの日本に対すると同様に、価値観を同じくするオランダとの関係を重視する意見があったのです。
外交政策の当否の唯一の物差しは国家国民の安全と繁栄です。現在の日本の選択肢はアメリカしかないのです。二本の安全のためには日米同盟以上のものはありません。アメリカの市場、技術との連携なしに、今の日本の生活水準は維持できない。歯をくいしばってもアメリカとの友好、同盟関係を何とか維持しようと努めることが肝要です。
最近でも、アメリカで日本の自動車産業が優越したりすると、すぐに経済摩擦を恐れて身構える人がいます。その度に私は、あれは冷戦が終わって、突然、ソ連と言う周敵が居なくなって、次の敵はどこかと、アメリカが見まわしている特殊な時期の一時的現象であって、二度と起こらないと言い続けてきましたが、今までのところそれは正しかったようです。
むしろ、その背後には、経済摩擦に乗じて日本企業から多額の報酬を得て荒稼ぎしたアメリカのロビイスト、ロイヤーたちがその再現を夢見て、危機感を煽ろうとしていることもあると思っています。
私は、あのような経済摩擦はもう起らないと思っていますが、その上で、もし万一、それが再び起こっても、それに対応する私の政策提言はまったく同じです。日本の安全と繁栄のためには、日米同盟堅持が大戦略であるという答えは変わりようもないのです。
Comments