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遊就館から未熟な反米史観を廃せ

【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 遊就館から未熟な反米史観を廃せ

2006年8月26日 産経新聞朝刊掲載 元駐タイ大使・岡崎久彦


■「靖国」の尊厳すら損ないかねず


<<唾棄すべき安っぽい議論>>


 8月20日の米紙ワシントン・ポストに保守派の論客として知られる ジョージ・ウイル氏が論説を掲げ、安倍晋三氏は新総理となったら靖国に参拝すべからずと論じている。

 その理由として挙げているのは、単に日中関係が悪いから修復する必要があるということだけであり、米国の世界戦略にとってどうのこうのという論点は全くない。むしろ、全体の書きぶりは、歴史家ウイル氏らしく、中立的、思索的であり、日本に対する非難のトーンはない。

 たとえば、中国が内政干渉する以上、日本は言うことを聞けないとの態度に対しては、ネルソンの火掻棒理論を紹介している。

 トラファルガーの海戦の前に、火掻棒を手にしてネルソンは言った。「火掻棒をどこに突っ込もうとおれはかまわない。ただナポレオンがここに突っ込めと言うなら、おれは他の所に突っ込む」。これを良いとも悪いとも言わず、中立的な歴史的な例として紹介しているだけである。

 ただ、他のすべての個所はユーモアと余裕をもって書いているのに、一カ所だけ文勢が激しいのは、遊就館の展示についての次の部分である。

 「遊就館の展示によれば、『大東亜戦争』は、ニューディール政策が大不況を駆除できなかったので、資源の乏しい日本を禁輸で戦争に追い込むという、ルーズベルト大統領の唯一の選択肢として起こされたものであり、その結果、アメリカ経済は完全に回復した、と言う。これは唾棄(だき)すべき安っぽい(あるいは、虚飾に満ちた、不誠実な=disgracefully meretricious)議論であり、アメリカ人の中で、アンチ・ルーズベルトの少数ながら声ばかりは大きい連中が同じようなことを言っていた」

 ウイル氏は引用され得る少数論の存在もちゃんと示しながら、この論に対する侮蔑(ぶべつ)の態度を明らかにしている。そして更に「小泉氏も安倍氏も、靖国参拝の際、遊就館には行っていない」と公平に付記している。

 全体の論旨には賛同できない点はある。というよりも、彼は私の尊敬する歴史家であるが、現実に動いている国際情勢については事実の誤認がある。


<<知のモラル上許せぬ展示>>


 2005年4月に中国で起きた反日デモは靖国とは何の関係もない。日本の安保理常任理事国入り反対は、官製デモの目的であり、靖国参拝の結果ではない。

 昨年10月の小泉総理参拝の前に、私は、反日デモは警察の厳戒態勢内の少数の抗議運動以外は有り得ないとして、総理の参拝を支持したが、現にデモはなかった。8月15日の参拝後もそうだった。

 昨年の総理参拝のころから、日本の対中国投資は再び活発になっている。 問題は首脳会談がないという人為的な障害だけであり、むしろ、こんなものは無視した方がよいという歴史観に基づく判断もあってよいと思う。

 この論文を読んでいて、ウイル氏が歴史家としてのインテレクチュアル・インテグリティー(知性のモラル)上、真に許せないと思っているのは遊就館の展示だと思う。

 この展示には、日本では他の国より弱いかもしれないが、世界的にどこでもある反米主義の一部が反映されている。過去4年間使われた扶桑社の新しい教科書の初版は、日露戦争以来アメリカは一貫して東アジアにおける競争者・日本の破滅をたくらんでいたという思想が背後に流れている。そして文部省は、その検定に際して、中国、韓国に対する記述には、時として不必要なまでに神経質に書き直しを命じたが、反米の部分は不問に付した。

 私は初版の執筆には全く関与しなかったが、たまたま機会があって、現在使用されている第2版から、反米的な叙述は全部削除した。


<<これでは靖国をかばえず>>


 戦時経済により、アメリカが不況の影響から最終的に脱却したことは客観的な事実であろうが、それを意図的にやったなどという史観に対しては、私はまさにウイル氏が使ったと同じような表現-歴史判断として未熟、一方的な、安っぽく、知性のモラルを欠いた、等々の表現-しか使いようがない。

 私は遊就館が、問題の個所を撤去するよう求める。それ以外の展示は、それが戦意を鼓吹する戦争中のフィルムであっても、それは歴史の証言の一部 であり、展示は正当である。ただこの安っぽい歴史観は靖国の尊厳を傷つけるものである。私は真剣である。この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う。


 (おかざき ひさひこ)

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