2011年3月1日
中米関係の緊張が高まっている。
米国の政府当局者の言説、各評論家の論説、新聞の社説などを見ると、二〇〇九年と二〇一〇年のそれぞれ一年間では様変わりである。
二〇〇九年には中国の脅威など説く人は寥寥たるものだった。そういうことを言うと、「自己実現の予言」になってしまうと、先まわりして批判され、むしろブッシュ時代以来の中国ステイク・ホルダー説、米中二国によるG2説が幅を利かせていた時代だった。
それが中国脅威論一色になった短期的理由は説明できる。
二〇〇九年十一月はオバマの就任以来最初の訪中だった。オバマ政権は、訪中を控えて、中国を刺激する措置を抑制または、先延ばしした。台湾への武器供与はその秋には実施可能だったが訪中後に延期された。十月のダライラマのワシントン訪問は空振りに終わった。ダライラマがワシントンに滞在して大統領に会えなかったのは初めての由である。
ただ、いずれも何時までもほうって置くにわけにはいかない措置なので、オバマ訪中後は次々に解禁した。中国としては、当然かねてから覚悟はしていたはずであるが、これに反発して数々の交流を停止した。その中でも大きかったのはげーつ国防長官の訪中延期である。また、そうした雰囲気の中でのコペンハーゲンの環境会議における中国の非礼な態度は米国を怒らせた。
ここで米中関係は一挙に凍りつき、ヒラリー・クリントン国務長官主導の、価値を同じくするアジア諸国を糾合する「アメリカのアジア復帰」路線が二〇一〇年を通じて始動することとなる。
発端がそれだけの理由ならばやがて振子は戻ってもよいはずである。しかし、なかなかそうもいきそうもない。そこから先は、推理、分析となるが、米国が中国を甘やかしていた一年間に、「それ見ろ、中国が強く出ればアメリカは引っ込むではないか」ということで、中国内のタカ派とハト派のバランスが崩れたようである。
しかも二〇一二年は中国指導部交代の時期であり、権力闘争はすでに始まっている。そうなるといったん崩れた権力バランス、そして、その結果としての中国の対外のトゲトゲしい姿勢は、しばらく続くと考えなばならないという情勢のようである。
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