2010年6月3日 ―産経新聞 正論―
鳩山由紀夫総理が辞任を表明した。私はここに鳩山内閣を送るにあたって、普天間問題について鳩山総理が最後に下した勇断を称(たた)えたいと思う。
実は、5月下旬、私はTVのインタビューを2度受けた。それは普天間決着の鳩山総理の公式記者会見前であったが、総理の決断はすでにその前の沖縄訪問で明らかな時期だった。
<<日米合意の優先は正しい>>
私は総理の決断を称えた。ただ、その時に私は取材のTV記者に言った。「おたくの編集部がこれを放映する度胸があるだろうか?」と。若い記者は、多分大丈夫だろうと言った。一人は、冗談まじりに『鳩山総理の勇気を称える』というフリップを考えると言った。ところが、どの放送局もその部分を放映しなかった。
そこで、やや長いが私の発言要旨を、ここに記録に留(とど)めておく。
「初めて鳩山という人の美質を見た感がある。おそらくは育ちの良さからくるものなのだろう。今までの誤りを認めて、ごめんなさいといえば、すべて許してもらえると思っている。過ちを素直に認め、自分の考えが浅かったなどということは、普通の人にはなかなかできないことである。
鳩山氏のしたことで何が悪かったかといえば、日米合意、沖縄の世論、連立与党の同意を同列に置いて論じ、結果として沖縄の反対論を煽(あお)り、自ら板挟みになったことである。何が国家国民の安全に必要かという議論こそ真っ先にこなければいけない。その意味で日本および東アジアの安全に関する日米二つの国家の方針をまず合意して、それを、沖縄および政府与党に対して説明し説得するという鳩山総理の決断は正しい。
そしてそれは今までの自民党政権の基本方針でもあった」
<<外交・安保は「超党派」で>>
TV発言を続ける。
「私は永く沖縄問題を論じてきたが、ある論文で、これを船のエンジンと乗客に譬(たと)えた。つまり、沖縄県民も日本国民も日本と言う一つの船に乗っている。沖縄の人は、エンジン・ルームに近いので熱いとか煩(うるさ)いとか不平がある。しかしエンジンを止めて船が漂流して岩礁にでもぶつかれば、沖縄の人も含めて全員溺(おぼ)れ死んでしまう。船のエンジンは絶対に止められない。あとは、エンジンの傍(そば)の部屋の人に別途どういう補償措置を講じるかという問題だ、と。
つまり国の安全保障は絶対の条件であり、これだけは譲れないのである。戦争になれば真っ先に戦場となる地理的条件にある沖縄の人々こそ、このことは肝に銘じて知っていると思う。そこで鳩山総理の『抑止力』という言葉の意味も出てくる。
自民党もまた鳩山総理の英断を称えるべきである。自民党が従来主張してきた正しい路線に戻ったのだから。鳩山発言を国家国民の安全の視点から論ぜず、他の野党と一緒になって、言動のブレばかり指摘するのは、自民党のすることではない。
そんなことをしていては、外交安保の超党派性というものを確立するチャンスが失われ、日本は永久に二大政党体制の運用不能力者になるではないか」
どうしてTVの編集は、これを放映しなかったのだろうか。
私が「度胸があるか?」と訊(き)いたのに深い意味はない。ただ鳩山批判の大合唱の中で、ムードに弱いTVがこれを取り上げられるかな?と言っただけである。
<<ムードでなく物事の本質を>>
考えてみると、あるいはもう少し深い意味があるのかもしれない。まだマスコミは日教組教育で育った世代の左翼的ムード的支配の世界なのかもしれない。
それでいてかつてのような左翼の確信犯が居るわけではない。日本の安全保障を第一に考えることの是非は誰も論(あげつら)ってはいない。議論すれば負けることは知っている。その問題は棚上げして、鳩山氏の態度がブレたことだけを批判しているのである。
問題の本質の是非を正面から論じないで周辺の事情だけを論じる、これは安倍晋三内閣の退陣の時にも経験したことである。
安倍内閣は教育諸法の改正、国民投票法、防衛省昇格など、過去半世紀の自民党政権ができなかったことを一挙に完成させた。しかし、辞職後そのことを論じた議論は皆無であった。議論して、その是非を論じれば、功績を認めざるを得ないからであろう。
マスコミはただ、途(みち)半ばにして病気に倒れたことを、政権投げ出しの一語で批判するだけだった。実は病気自体、教育法案などを通した通常国会と引き続く参院選の過労の結果であったのであるが。
物事の本質の議論を避けて、その時のムードに合った片々たる事象だけを取り上げる、しかもその背後には漠然として整理しきれない日教組教育の残滓(ざんし)がある。
こんな状況は、もういい加減に整理してほしい。
後継の内閣が、国家国民の利益を優先した鳩山内閣の最後の決断を尊重し、再び日米の信頼関係を損なうことのないように望む。
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