2010年10月1日
<<やらずもがなの菅談話>>
菅内閣が日韓併合百年を記念して談話を発表した。
私はもともと、やらずもがなのこと、と思っていた。そして、他方、寝た子を起こして、また、しばらく、対韓、対中外交で面倒なことになる以外は大したことにもなるまい、と思っていた。
それは、私は長期的にはこの問題はそろそろ終わりだと思っているからである。
戦争の記憶というものは戦後一世代で消えて、あとは歴史家の手に委ねられる。
ナポレオン死後、ナポレオンとその戦争を罵詈讒謗したレアクシオンの時代は一世代後には消えて、ナポレオンの評価はフランスの栄光を輝かしたことに定着した。第一次大戦後、ドイツはクルトゥール(文化)の国にふさわしくないとしてその戦時中の蛮行を非難されたが、それはせいぜい十年ももたなかった。
日本の戦争の過去の問題は、戦後未解決のまま放置された問題ではない。いったんは過去のこととして歴史家の手に委ねられたものが、人為的に蒸し返された問題である。
戦後一世代たった一九八〇年という一年間をとってみて、いかなる中国、韓国、米国の新聞論説、学者の評論のなかにも、日本の戦争中の過去を論じ、謝罪の必要性を述べた文献は皆無だったと断言できる自信がある。私自身防衛庁にいて、その前後三年間、三百回答弁に立ったが、私自身を含めて、この問題が国会で質問され答弁した記憶は皆無である。
それが蒸し返されたのは一九八二年の教科書問題の宮沢談話と一九八五年の中曽根総理の靖国参拝問題からであるが、いずれも、その発端は、日本側から外国にご注進し、その反応を引き出したものである。
私のみるところでは、七〇年安保で挫折した左翼分子が、今度は外国を焚きつけることで反戦運動の再燃を図ったものである。
韓国でも中国でも、日本側から言われれば答えざるをえない。まして、韓国では、朴正熙政権の親日政策のあいだも小中学校教育では続いていた反日教育の土壌がある。それが一挙に噴出したのである。
中国のような独裁国家では、一般国民の感情と外交政策とは結び付かないが、この問題で日本が外交的に受け身に立つことは中国にとって不利でないので、歴史問題を公式の政策とするようになった。
そしてその間、韓国では盧泰愚時代の言論自由化、中国では天安門事件以降の民主化弾圧、愛国主義鼓吹の政策があり、たちまち国民感情として定着するようになったのが、いままでの経緯である。
世界の歴史の前例に無い事態なので、見通しは難しい。人為的に起こしたものであるから長続きはしないのではないかとも思うが、逆に、今回の菅談話のように、人為的に続けることもできるという理屈になる。
要は蒸し返さないことである。韓国の対日批判が燃え盛ったころ、韓国の知識人は私にいった。
「この問題について、私に聞かないでくれ。聞かれたら返事をせざるをえない。下手な返事をしたならば、マスコミの集中的批判を受けることになる」
韓国、中国ともに、もう未来志向ということで、火が消えかかっている時期であるから、今回の菅談話は、それほどの悪影響はないと思う。それでもこの問題の火を、もうしばらく灯し続ける効果はあろう。
だから、私は、大した問題ではないとして、余計なことだと言っているのである。
<<弱小国としてのレッサー・イヴル>>
ところで、私は、たまたま、関東平野西隅の旧家浅見家の土蔵に保存してあった「有楽社グラヒック」の日韓併合記念号を見る機会があった。これも併合百周年の何らかの縁であろう。
明治四十四年発効で特製定価弐円五十銭という豪華版である。その付録に、伊藤博文、李完用(一八五八年生~一九二六年没)など四名連作の七言絶句の揮毫の複製があった。
甘雨 初めて来たりて、萬人を霑す。 春畝
咸寧殿上、露華 新たなり。 槐南
扶桑槿花 なんぞ熊を論ぜんや、 西湖
両地一家 天下の春 一堂
初九 庚戌書 一堂 李完用
日付は日韓併合の歳、庚戌(一九一〇<明治四十三>年)旧暦一月九日、新暦二月十八日である。しかし、すでにその前年、伊藤公はハルビン駅頭で暗殺されている。
天下の春という言葉があるので、季節は春でなければならない。正月初めの亜目は吉兆なので、甘雨初めて来る、としたのであろう。扶桑槿花は、もとより日本と韓国のことである。
恐らくは、春畝伊藤公が、祖の最晩年の一九〇八年、〇九年ごろの旧暦新春の宴の際、森槐南(一八六三年生~一九一一年没。明治時代の漢詩人。伊藤博文が暗殺された際に随行しており銃創を負う)、曽禰荒助(一八四九年生~一九一〇年没。長州出身。韓国副統監を経て一九〇九年に韓国統監になるも翌年病没)、一堂李完用と共に、戯れてつくった書を李完用が預かり、博文死後、日韓併合を目前にして、今は亡き伊藤を偲んで落款したものであろう。
某専門家に見せたところ、李一堂の書を一目見て、これは稀代の胆力のある人の書だと讃嘆した。
それで思い出したのは、私がかつてソウルに在勤した時のある骨董屋の主人の言葉である。李一同の書は稀代の名筆です、今なら捨て値ですから、探し求めてお買いなさい、といっていた。
しかし、その後、一堂の書に接する機会はなかった。ところが、今回改めて李の七字を見ると、たしかに筆勢豊かで、大胆、自由無碍、尋常の人の書ではない。
ここに至って、一堂とはいかなる人物だったか思いを回らす気持ちを抑えられなくなった。
私は、先に、大日本帝国時代の日本の友だった、南京政府主席汪兆銘、初代満州国総理鄭孝胥について考察したことがある。そして調べるほどに、前者は陽明学を究め、後者は周文王の王道を志した達人であることを知り、いずれも現在はその政治的出処進退の評価の影に、その人格的高風が忘却されていることを惜しんだ。
しかし、李完用については、いままでに顧みる暇がなかった。
李完用は、解放後の韓国においては親日派、売国奴の代名詞であり、盧武鉉政権下では特別法によって、その子孫は政府に土地を没収されている。
李完用は、一八八三年に科挙に合格し、八七年より三年間アメリカに勤務した、当時の韓国として稀な大秀才である。九五年、閔妃(李氏朝鮮第二十六代国王でのちに大韓帝国初代皇帝となる高宗の妃。一八五一年生まれ)が日本により暗殺され、その後、大院君(高宗の実父。一八二〇年生~一八九八年没)派が政権を取るや、政権打倒のクーデターを策して失敗し、米公館に逃げ込んでいる。
それを見るだけでも、一身の危険を顧みない愛国者であることがわかる。
そして翌九六年、韓帝高宗をロシア公館に避難させるのに成功し(露館播遷)学部大臣となる。韓廷は、ロシア公館に庇護のもとに勅令を下して親日派の粛清を命じ、金玉均(一八五一年生まれの朝鮮王朝の政治家。一八八四年に閔妃打倒のため甲申事変を起こすも失敗し日本へ亡命。一八九四年上海で暗殺される)の独立党以来の伝統ある親日派はほとんど根絶される。
事態収拾のために急遽、駐韓公使として赴任した小村寿太郎は帰朝後、勝海舟を訪問し、「幕末の閣下と同じでした」といった。勝が、その意味を問うと、小村は、「天子を敵の手に奪われて万事休しました」といって、両者大いに笑ったという。
ここにおいて日清戦争で日本が勝ちえた地歩はことごとく水泡に帰する。露館播遷という李完用の奇策の前には、さすがの小村も、手も足も出なかったわけである。
しかし、その後、ロシア公使ウェーベルと対立し、一時左遷されるが、中央に戻ってからは親米派となり、日露戦争勃発後は親日派となる。
庇護を求める国を転々と変えるオポチュニストのようにもみえるが、じつは、弱小国韓国として、その場でそれしかないレッサー・イヴル(次善の策)を選んだというべきであろう。
<<伊藤博文に託された最後の望み>>
実は、この詩に接して、伊藤博文がソウルを訪問した日を遡って調べているうちに、日露戦争開始直後の伊藤訪韓の記録に行き当たった。
日露開戦すや否や、日本軍は仁川に上陸してソウルを抑え、韓国領土を軍事のために使用できるようにするため、韓国政府に第一次日韓議定書を署名させる。しかし、韓廷内にはロシアの意向を忖度して逡巡する動きがあり、日本政府は説得のため、伊藤博文を特派する。
伊藤は、三回にわたって韓国王と会談するが、その模様は日本の駐韓公使林権助が詳しく電報している。
それによれば、国王は、伊藤に対して、
「自分も国政改善をしようとしたが、政変(閔妃暗殺など)が相次いでそれが妨げられ、自分も身の危険を感じてロシア公使館に避難した。しかし、そこでロシアの挙動を見ていると、韓国に野心を持っていることに気付いた。ロシアには庇ってもらった恩があるので表には出さなかったが、ひそかに警戒していた。
いまやロシアは満州を占領し、韓国を狙っている。韓国がロシアに取られれば、それは東洋全体の禍いとなる。それが日露開戦が避けられない理由である」
と語っている。
林公使は、電文末尾に、国王は暗に自分とロシアのあいだには内密の関係のないことを弁疏したようだ、と追記している。しかし、私は国王の言葉は額面どおり取ってよいと思う。
国王は、すでにソウルを日本軍が占領しているなかでも、敢えて閔妃事件における日本の干渉を責めている。しかし日本の野心は未然の脅威であるが、ロシアは目前の危険であり、当面はこれを避けるのが急務である。その場合、自分の力を持たない韓国としては、日本に賭けるしかない。韓帝といい、李完用といい、思うところは同じだったのであろう。
その後の李完用の進退、特にハーグ密使事件(高宗が一九〇七年にハーグで開催された第二回万国平和会議に密使を派遣し主権の回復を訴えたが失敗に終わった)以降、伊藤と共に韓帝退位を迫り、また併合に至る過程において、若干の主張はしてはいるが、それが容れられぬまま、日本の意向に順応した事実を如何に解するべきなのだろう。
いずれにせよ、客観情勢は、もはや挽回しえないところまできていたことは明らかだった。列強はすでに日本の自由裁量を認めていて、干渉してくれる可能性はゼロだった。ハーグに密使を送っても、安重根(一八七九年生まれ。抗日闘争を志し、一九〇九年十月に伊藤博文を暗殺。翌年処刑)のように挙兵しても何の効果もない。
あえて抵抗すれば日本は韓国と戦争状態に入って征服する意思を仄めかしている。そうとなれば、アフリカの英仏植民地、ロシアの中央アジアのようになってしまう。
そういう状況の中で選択肢は限られている。それは、岳飛、文天祥、そして安重根のように国に殉じて死ぬか、あるいは恥を忍んで李王家の滅亡を避けるか、の選択しかない状況である。
李完用がその後者を選んだ理由として、私には、二つの仮説がある。
一つは、李完用には、伊藤博文に最後の望みを託していたのではないかと思う。
伊藤は、クローマー(一八四一年生~一九一七年没。イギリスの植民地行政官)に私淑していたという。クローマーは、一八七七年から、ちょうど伊藤が朝鮮統監だった一九〇七年まで三十年間にわたって事実上エジプトの全権力を掌握し、破綻していたエジプト財政を立て直し、教育、保健などエジプトの近代化に貢献した人である。
一九〇七年の演説で伊藤は、「旭日の旗と八卦の旗が並び立てば日本は満足する。日本は何を苦しんで韓国を滅ぼす必要があるか」「韓国は自治せねばならない。しかし日本の指導監督がなければ健全なる自治を遂げることはできぬ」といっている。クローマーがそのイメージであったことは想像に難くない。
外国人に内政改革を期待するのは当時としてはそう珍しいことではなかった。遡れば、北清事変前、伊藤の訪中に際して、清国においては、明治維新を達成した伊藤を引き留めて清国の宰相に迎えて清国の改革を行わせようという上奏文もあった。前述の会見でも、韓国王は、伊藤公をビスマルク、李鴻章に並ぶ人傑と称えている。
また、それは国王、李完用のみの期待ではなかった。「朝鮮の悲劇」の著者マッケンジーは、「伊藤が韓国人の行為と尊敬を受けていたことは十分留意すべきである。彼の仁徳は彼自身のものと見なされ、彼の統治の上での欠点は、すべて日本帝国の拡張に伴う避け得ない付随物と見なされていた」と書いている。
李完用が、いずれは韓国が列強に併合される客観的状況は認めつつも、ロシアの専制よりも、伊藤の開明的支配に期待したことは想像しうるところであり、それはこの詩にも表れていると思う。
同席者が、伊藤と考えを同じくする曽禰荒助であったことからもその席の雰囲気が想像される。
また、その伊藤を失った失意の心情は、察するに余りある。それは彼の追悼号「一堂紀事」のなかの記述からも察せられる。
一年前の詩に落款したのは、伊藤の後継者たる日本の指導者たちに対して、伊藤と伊藤の抱いていた理念を忘れないでくれと念を押すのが目的だったかもしれない。
<<「韓国民は自己を治めえない」>>
第二の仮説は、現在の韓国における史観と背馳するところさらに大であろうが、韓国内にお居て李朝の秕政に対する怨嗟の声は高く、また、宮廷内の派閥抗争、陰謀の激しさは親韓派外国人を挫折させること甚だしく、少なくとも当初は、日本支配の可能性はそれとの比較において論じられていたという事実がある。
マッケンジーは日露戦争開始後、「最初の数週間、どこでも日本軍に対する友好的な話ばかり聞かされた。下層階級は、日本が、地方の役人の圧政を正してくれると望んだ。また上層階級の大部分は、日本の約束を信じ、かつ、従来の経験から、韓国の抜本的改革は外国の援助なしではできないと確信して日本に心を寄せていた」と書いている。
それがやがて、屈辱的な収奪となっていく過程を描写するのが、この「朝鮮の悲劇」のテーマである。
時の駐韓米公使アレンは、宣教師出身の典型的な善意のアメリカ人であり、韓廷にもアメリカを頼るよう説得した親韓派であって、そのためにローズヴェルトが親日的な公使と交代させたほどの親韓派であった。
しかし、そのアレンも、日露戦争が始まる時期には、韓廷の腐敗と陰謀に幻滅して、「もし米国が、感情的な理由で韓国独立を支援すれば大きな過ちを犯すであろう。韓国民は自己を治めえない。日本による併合は、韓国民と極東の平和にとってもよいことであろうと考える」旨、ワシントンの担当官に書き送っている。
アレン公使と信頼関係にあったと思われる李完用が、アレンと同じような考えに帰着したこともありえないことではないかもしれない。
李完用は、併合決定を通知されたときは、韓国の名称を残すことを要望したが、寺内正毅統監(一八五二年生~一九一九年没。長州出身。伊藤、曽禰に次いで第三代韓国統監となる。前任二者より積極的な併合推進はであった。併合後は初代朝鮮総督)により拒否されたという。李は、また、親日派でありながら、日本語はけっして学ばず、日本語で会話したことはなかったという。
一九二六年逝去に当たっては、李を惜しむ葬列は数キロに達したという。
大日本帝国が滅亡してから、すでに六十五年が経過した。日本は復興したが、かつて大日本帝国の友だった人びとは、その間の出処進退のために汚辱にまみれている。政治的、イデオロギー的評価を離れて、彼らの個人的高風を偲んで一掬の涙を濺ぎたい。