【正論】再論「靖国」 元駐タイ大使・岡崎久彦 官僚の偏向のにおいがする
2008.4.24 02:34
映画『靖国』を私はまだ見る機会はない。しかし試写を見た人から話を聞いた私の理解では、日本刀、靖国神社、昭和天皇を、戦時中の日本のイメージと捉(とら)えて、それを南京事件や百人斬り事件(使用されているフィルムの信憑(しんぴょう)性にはかなりの問題があるようである)の背景として映し出した映画のようである。
映画の芸術性については問題にしない。むしろ、もし私が中国人であり、日本をある程度、外国人としては必然的ではあるが、生齧(なまかじ)りした中国人であったとしたら、戦争中の日本人をイメージするためには、一つの芸術的な手法だと信じても不思議でない。
そして、もし私が、南京事件、百人斬り事件のプロパガンダをしたいという政治的意図があったとしたら、その出来映えに自分ながら誇りを持ったかも知れない。
問題はその作製を日本国民の税金で支援することの可否である。日本芸術文化振興会の助成の対象は、(1)日本映画の企画から完成までの製作活動(2)商業的、宗教的、政治的な宣伝意図がないこと、である由である。
まず日本映画なのかどうかという問題について、製作会社は、日本法人ではあるが取締役はすべて中国人であり、しかも助成金支払いが内定したあと、北京の映画会社を新たな共同製作者として追加した由である。
政治的宣伝意図については、靖国問題を扱うこと自体政治的動機抜きということはあり得ない客観的状況である。また、南京事件、百人斬りは、それを捏造(ねつぞう)または極端な誇張としてでなく、事実として扱うこと自体が政治問題であるのが現状である。
<<重大な文化庁の責任>>
右のような条件を比較考量して見ると、政府の助成は正当であると言うためには相当な強弁が必要なことは誰が見てもわかる。国会の質疑応答を読んで見ると、政府側は、ギリギリの答弁をして、なんとか逃げ切っている。
ただ、逃げ切ればそれで良いというものでもない。私も役人だったが、どうしてこんな苦しい答弁をするリスクを冒したのかが腑に落ちない。まして国民の税金を使う案件であるから、いささかでも疑惑を招かないように、李下に冠を正さないぐらい慎重を期するのが役人ではないか。
敢えてそうするのは、世間の常識が反発するのを覚悟の上何とか無理を通そうという確信犯的な場合だけである。
そう言えば、文化庁の答弁は苦しくなると最後には、記録映画専門委員会の判断だと言って逃げている。そのメンバーを見ると、ほとんどが映画評論家であって、映画の芸術性は論じられても(私と同じように製作者の芸術的意図は認めたであろう)、政治性の観点からの政府助成の適否の判断などについての専門家ではないようである。
そしてその中には(憲法)九条の会の活動家、神社合祀(ごうし)反対運動家の名もあるが、それをバランスできる反対側の政治的傾向の人の名は無いようである。
そんな委員会では少数でも確信犯的意見が出れば大勢が一方に流れることは自明の理である。
そういう人選をチェックしない文化庁には監督責任があろう。また、そこから出た意見を、チェックもしないでそのまま鵜呑(うの)みにしている(あるいは確信犯的に見過ごしている)文化庁の責任が問われなければならない。
<<世代間の認識に差も>>
私はここには世代の問題もあるのではないかと憂慮する。1982年の歴史教科書修正誤報事件が起こった時点で、切歯扼腕(せっしやくわん)した文部官僚達は私と同世代であった。ところがその後『官房長官談話』を積極的に擁護したのは、日教組教育の下に育ったその次の世代の官僚達だった。
今度の事でも、確信犯でもなければ、役人があんな危ないことはしないと私が思うのは、その故である。
政府が助成金を出す是非を検討するために議員が試写を求めたのは国政に責任ある身として当然である。
その結果映画館が上演を取りやめたのは、派生的な影響に過ぎない。ただ、私は映画館がそれでビビッたことを残念に思う。私は国民のなるべく多くにこの映画を見て欲しいと思う。
その内容の是非については、見る人の政治傾向によって異なろう。ただ、その内容が、政府が国民の税金を使って助成すべき映画かどうかを判断して欲しい。おそらく結論は自明の理であろう。
そしてそれが一部官僚の怠慢、あるいは確信犯的偏向を是正することになることを期待する。
(おかざき ひさひこ)
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