2008年12月26日
元駐米大使村田良平氏が回想録を出版した。ただし、私はここでその書評などを書くつもりはない。
村田氏は外務省同期入省であるが、だからといって仲間ぼめなどする気も全くない。そもそも、上下二巻の堅い本で、こんなところで書評を書いても、それで販売部数が増えるというような性質の本でもない。
また、彼が外務次官、駐米大使を歴任して、長く日本外交の中枢にいたので、この本が日本外交の貴重な証言としての価値があるから取り上げる、ということでもない。
端的に言えば、敗戦によって二流国に転落した戦後の日本外交において、いかに村田氏が、その都度その都度、心血を注いだとしても、その成果などは国際政治の大きな流れの歴史に、爪痕も残さないであろう。
ちなみに、私は『陸奥宗光とその時代』に始まる近代日本政治外交史を書き始めた当初は、第四巻の敗戦で終わるつもりであり、第五巻の占領時代史まで書く意図はなかった。
戦前の日本の外交は、その一挙手一投足がアジアの情勢、ひいては世界全体の情勢に影響を与えた。しかし、国際政治の流れに何の関係もなくなってしまった敗戦国の外交の歴史を書いても、国際的に何の意味もないと思ったからである。
しかしたまたま一九九〇年代になって占領期の資料が次々に発掘され、占領期というものが現在に至る戦後日本の政治社会に残している深刻な影響に改めて気づいて、第五巻『吉田茂とその時代』だけはやっと終わりまで書いた。
だがその後、引き続き戦後の日本外交史を書くという示唆は固辞した。岸外交、中曽根外交、最近の小泉、安倍外交などが日本の国益に資したことを評価しないというわけではない。しかし、国際政治の周辺にしかいない中小国の外交史を書くということには、誰からも頼まれもしない自分史を書くような気恥ずかしさを禁じ得ないからである。
私が村田氏のこの回想録を取り上げるのは、これが良心の書だからである。深い日本の歴史文化伝統を背景とした戦前教育を受けた日本のエリートが、占領中無理無体に押し付けられた憲法体制の下で、そして浅薄な反戦平和主義の瀰漫する社会の中で、敗戦国の外交を担わなければならなかった半世紀間の心理的葛藤を赤裸々に著した、戦後日本の精神史だからである。その点、他の外交官の回想録とは全く異なる書だからである。
だから、このエッセイは村田良平回想録の書評ではない。この本と対話をしながら、私自身の体験と照らし合わせて、戦後六〇年間とは何であったかについて、もう一度私自身が想い返してみたいということである。
戦前の世代
村田氏は旧制高校の教育を受けた最後の世代である。しかも三高から京大に首席で進学した大秀才である。それだけでも戦前の教育を完璧に受けた人と言ってよい。
私は村田氏より一年若いので、旧制高校は途中までで、新制東大に入った。しかし私の学校は七年制高校といって、旧制高校と旧制中学とが一体となっている学校であり、中学に入ったときから、当時の帝国大学進学は約束されている学校だった。したがって入試のための試験勉強もなく、歴史などの課目は高校の教授(後に東大教授となった)が中学一年から教えたので、旧制高校の自由と教養主義の雰囲気に六年間浸って育った。その意味で私も彼と同じ旧制高校世代である。
敗戦の年、村田氏は十六歳、私は十五歳。人間の基本的な人格形成、教養形成の時期を少なくともその第一期が十五歳までとすれば、私たちは戦前の人間である。
われわれの直後から戦後教育の世代が始まる。それが加藤紘一氏などの六〇年安保世代、ついで、全共闘、団塊の世代である七〇年安保世代と続いて、十数年間にわたって反戦平和主義に染まった世代が続く。村田氏が彼の直後の後任の外務次官たちの思想、行動について、名指しはしなくても、歯に衣を着せぬ批判をしておられる背景もここにあろう。
ちなみに私の祖父の岡崎邦輔の初陣は数え年十六歳のときの紀州藩での鳥羽伏見の戦いへの出陣である。伝記を見ると、四書五経はもちろん、剣道から馬術、水泳に至る武芸百般の基礎教育はそれまでに受け終わっている。つまり私の祖父は江戸時代の人間であり、同じ意味で私も村田氏も戦前の人間である。
私は六歳まで祖父の膝下に育った。朝食後、「西の間」といわれた祖父の居所に挨拶に行くと、祖父は、書生が開封して差し出す来簡を読み、巻紙に筆で返簡をしたため、それを書生がくるくると巻いてたたんで封筒に入れて差し出すと、その上書きを書くのを毎朝の習わしとしていた。
私が肌で感じた体験では、江戸時代の人間も戦前の人間も本質的に変わるところはない。同じ日本人である。戦後の人間となると少し変わっているかもしれない。あるいは同じかもしれない。それが、多分、このエッセイの一つの潜在的な主題でもあると思う。
大衆の復讐
戦前の教育環境の中に育った人々は戦後社会にどうしても馴染めない、その価値を評価できない、これが戦後半世紀以上の日本の社会の悲劇である。
パリで武官を務めたある自衛隊の幹部--陸軍士官学校出身だと記憶する--が言っていた。「戦争に負けるまで、私の人生は常に希望に満ちていました。しかし戦争に負けてから現在に至るまで、幸せを感じたことはありません」。生活のため、家族のためにやむを得ず生きてきた、ということである。
産経新聞社が出している雑誌『正論』の投書欄などを読んでみると、戦後社会に対するこの種の違和感が鬱積し渦巻いている。
過去の教育を受けた人間が軽佻浮薄な現代の社会に違和感を感じるということは、敗戦後の日本に限らずどこの社会にもある。
その典型的な例は、一九五〇年代以降二〇年間ほど一世を風靡したデヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』である。まだ開拓時代の精神の残っていた十九世紀のアメリカに育った知識人が、豊かさと利便さに浸った現代人の、物と時間の浪費、欲求不満と疎外感に違和感を持ち、過去のアメリカ人の伝統指向型、内部指向型に対して、新しい傾向を他人指向型と定義した論文である。
この違和感はアメリカよりも伝統社会であるイギリスのほうがもっと強い。記憶だけなので、原典の引用はできないが、アーノルド・J・トインビーは、戦後のイギリスの時流を、伝統的イギリス上流社会に対する「大衆の復讐」と表現したと記憶する。
戦後の日本の現象もこの一部と理解することも可能である。発端は占領であるが、それはその後もむしろ増幅されて、続けられている。
旧制高校卒業生による官僚支配は、徳川時代の教養と徳性のある士大夫支配の延長であるとも言えるが、これに対する大衆の復讐は今でも続いている。
伝統ある大蔵省の名を財務省に変えるなどというのは、官僚の士気を維持高揚させて働かせる、という国民の利益のために、完全にマイナスの効果しかない。単に、官僚からエリート意識を奪おうという、大衆の復讐以外の何ものでもない。こんな無意味な改革はいつか元に戻すべきだと思っている。
公務員改革が国民の総意のようにメディアでは取り上げられている中で、衆議院議員の中山成彬氏が、麻生内閣組閣の際、自らも夫人も、かつて大蔵省に勤め、令息は現在も財務省に勤務しているという理由で公務員改革担当大臣を謝辞したと報じられているのを読んで、ここに一個の男児あり、との感を禁じ得なかった。
言論の自由はあったか
ただ、日本の場合は、こうした状況の背景に、米英の場合とちがって、日本の社会自らの変化ではない要素があった。
すなわち、日本自身の意思とは関係のない占領行政がその発端である。日本人を精神的に無能力化させる目的の初期占領政策が生んだ偏向教育が、その後、アメリカの政策は変わったにもかかわらず、今度は、日本の非戦力化が目的の冷戦時代の共産側のプロパガンダ、そしてその走狗となった左翼勢力により、維持、増幅され、反政府、反権力志向が国民の意識の一部に定着したものである。
それは、もともと日本人自身の意思ではない。それだけに、それに対する古い世代の反発も強いということである。
村田氏は、すでに、高校、大学時代から現憲法体制に疑問を抱いていたという。
「私は、マッカーサーが、昭和天皇を人質として、九条二項と、条件の厳しすぎる改正手続き条項とを入れて、憲法を強制したことには既に学生として本能的に強い反発を感じていた。国家公務員となった以上、この憲法に明白に違反する行為は行えないが、心中では憲法前文を軽蔑し、本文の規定にも個人的に尊重の念は持たず、機械的にやむなく従うことを秘かに心中に誓った次第であった。私は、一人の日本国民として、個人としてはかく今日まで自尊心を守って来たつもりである」
その前の段落ではこう書いている。
「日が経つにつれて占領中に米国の施した洗脳の効果が少しずつ浸透し、学校教師もマスコミも、所謂『進歩的文化人』の妄説に汚染され、戦後六〇年余、米国の庇護と幸運により日本が平和裡に時を過ごせたことを〝平和的憲法のお陰″と誤認する愚者が少なくない事態にまで立ち至った」
そして「護憲派」が生まれた理由として、(イ)現行憲法の屈辱的出自を知らない(学校で意識的に教えない)、(ロ)護憲を叫ぶ以外に政治的拠り所がない政治勢力がなお存在する、を挙げた上で(ハ)として次のように書いている。
「日本が平和を享受し得たのはこの憲法ことに第九条のおかげであるとの途方もない嘘を、一部著名学者、日教組など左傾した組合、朝日、毎日、NHK,岩波書店に代表される偏向したマスコミがつき続けたことによる。(この後で、村田氏は、戦後日本が平和でありえた本当の理由について国際政治的分析を示している)……なお、宮沢俊義、横田喜三郎はじめこの憲法を弁護どころか賞賛した学者とメディアは、大別して、占領初期にそれが自己の保身になると考えたか、コミンテルンの諸テーゼ、とりわけ三二年テーゼを信奉し、新憲法を(日本共産化の)第一歩と考えたか、または、東大教授などの学者として、一流新聞記者として、個人としての地位、身分、収入の保全や組織の一員としての虚栄心なり売名を欲したか、のいずれかが、基礎であったと思われる」
この分析が極めて正確であることは、今の人にはわからないかもしれない。その点、その時代を経験しているという意味で村田氏も私も昔の人である。
一言で言えば、学者、言論人にとって、時流に迎合しないことが、すなわち職を失い(執筆、発言、授業から疎外されればそうなる)、家族を抱えて路頭に迷う時代があったということである。売名という表現も、厳しいようであるが正しい。偏向思想に迎合して名を売らない限り、学者、評論家としての生活を失う環境があったのである。
一九七〇年代初め、韓国で、当時自宅幽囚の身だった金大中氏を福田恆存氏と二人で訪れたことがあった。そのとき、金大中氏が韓国に言論の自由がないことを嘆いたのに対して、福田氏が日本こそ言論の自由がない、私の言論はことごとく封殺されると、言っておられた。今の人にはわかり難いであろうが、私は当然のように理解できた。福田氏は自分の生活を賭して世間に発言しておられたのである。
それは評論家など、発言しなければならない職業の人間に課された責め苦であった。ところが時流に迎合しているうちに、それが習い性となり、あるいは、弁解を繰り返すにつれて、それが自分の思想のようになり、もう後に引けなくなったケースが大部分と思う。
一般の人は、いかに戦後体制に違和感を感じようとも、それについて発言する必要はなかったのだから、自らの家族と、会社と、あるいは国の経済の再建にいそしめばよかった。もちろん、発言しなければならない職業の人間は知識階級である以上、深層心理においては、精神的に苦痛な環境ではあったが、戦後の窮乏した日本で生活と仕事に追われて苦痛を忘れることはできた。
村田氏はこう書いている。
「平和主義」の名の下の、非核三原則、集団的自衛権などの、政府の種々の憲法解釈について、「かかる政府の欺瞞や、粉飾に関し、私は直接担当する部局に所属せず、憲法関連の質問に対する国会答弁の機会も一度も起こらなかったから、私の批判は心中の葛藤に留まった。答弁なら、心にないことを述べざるを得ないから、その意味で幸せであった。……私は今や一人の年金生活者であり、直接苦悩する日々は去った。しかし、日本が法治国家である以上、……現行憲法の効力停止と新憲法の制定を行うことがあるべき姿であると考える」。
なお、いかにして憲法の効力を停止させるかについては、別の箇所で、「私は、個人的な意見であるが、まず政府が責任ある文書によって、この憲法の成立過程を今一度許容限度のギリギリまで明確化して国民に示し、現行憲法の無効宣言を発し、国民の祝日たる五月三日の『憲法の日』を廃止することから、ことを始めるべきである」と書いている。
村田氏は天下の秀才である。そして、まだ戦前の自由が色濃く残っていた三高、京大のしっかりした教授の指導を受け、学生時代から戦後日本の思想的政治的体制の欠点の本質をわかっていたらしい。と同時に、謹直な模範官僚としてそれを深く蔵して出さなかったのである。
戦後の外交官
ひるがえって、私の場合を想い返すと、戦後の教育、マスコミの論調は、ほとんど生理的に、どうしても受けつけられなかったが、さりとてこれに代わるしっかりした思想、哲学を持っていたわけではなかった。
万が一、外部に意見を言わざるを得ない立場に立たされていれば、「右翼反動」と言われるのが怖くて、戦後平和主義の口真似のようなことを言ってしまった可能性さえもあったと思う。私の周囲は皆そういうことを言っていた。その時代に発言して、今さら引っ込みがつかなくなっている同世代人の気持ちもわかる気がする。
おそらく、そのままでいれば、私は、歴史、文学、芸術には親しみつつも、ブリッジ、マージャンと酒しか生き甲斐のない虚無的な人生を送っていたと思う。
私の心理的転機は、私が三十六歳で初めて課長になったときの下田武三外務次官の「外交官は一生飼い殺しで年金が高い。お国のためだけ考えていればよい」の一言である。結果としては、その後、役人の年金の最高限度は大幅に減額され、下田次官に騙されたことになったが、そのときは、その言葉が妙に心に響いた。
その前にパリに在勤したときに、ドゴールの分析に従事して、国家的に物を考えるということの重要性を知った。また、分析課長就任早々文化大革命(一九六六年)に遭遇して、それまでの日本のインテリの毛沢東崇拝、中国共産党礼讃の崩れ落ちるのを経験し、次いでプラハの春(六八年)がソ連軍によって無残にも蹂躙されるのを見て、いわゆる緊張緩和、平和外交の虚しさを知った。
こうして「お国のためだけ考えていればよい」の一言で戦後二〇年間の心の霧が晴れた。国家国民の安全と繁栄だけ考えていればよいのである。すべてをこの尺度だけで考えれば、精神的にこんな楽なことはない。小学校以来のひどいどもりがいつの間にか消えたのもそのとき以来である。
それ以来四〇年、私はブレないですんでいる。役人のときは三〇〇回近く国会答弁に立ち、ギリギリの答弁はしたが、良心に恥じることは言わないですんだ。戦争中「検閲などで困る奴は文章が下手な奴だ」と言ったのは馬場恒吾だったと記憶している。
「仮想敵」という言葉を使うと他国の善意を信頼する憲法の違反となるので、「もし仮想敵が攻めてきた場合は」と言ってはいけないというので、その代わりに、「もしソ連が攻めてきた場合は」と言ってみたらば、どこからも文句は出なかった。
もうこうなれば現行憲法体制の獅子身中の虫。自民党では支持の声も多かったが、後藤田正晴氏などからは露骨な叱責を受けた。
もちろん、聞く人間がハラハラする答弁をしていれば出世の妨げにはなる。心配してくれる人もいたが、「外交官試験を通っているのだから、どう転んでも、地の涯の国の大使にはなれる」と言って意に介しなかった。今は外交官でもとてもそうはいかないらしいが、まだ良き時代だった。「お国のため」と思うだけで、それだけの強さが出てきた。
その上に私は、あくまでも客観的に情勢を分析するのが職務という、国際情勢分析専門の牙城を持っていたことも強かった。
このように、現在、村田氏と私は戦後の憲法体制については同じ考えを持っている。私が、もっとも緊急に重要と考えている集団的自衛権の解釈については、村田氏は「法制局の解釈は、五五年体制の下で野党の勢力がかなり大きかった時代の国会対策として出され、その後は単に法制局の『面子』の問題となっているだけだ」、「安倍前総理がこの問題を検討する委員会を設けたこと自体不要であり、私は、不見識とすら感じた」、「安倍氏は、総理大臣の責任において、『日本は集団的自衛権は保有している、しかしその行使は慎重であるべきであり、最終的には総理大臣たる自分が判断する』と述べ、もし法制局長官が意義を唱えれば、辞任を求めるべきだった。憲法上日本の総理大臣はその権限を持っているのだ」とまで書いている。
私はその「不見識な」委員会のメンバーであったが、この村田氏の意見が実現するのならば、もとよりそれに全面的に賛成である。
反米の根
ここまでは、村田氏と私の意見は完全に一致する。
一致しないのはアメリカについての認識である。村田氏は日米同盟は本来敗戦によって押し付けられた屈辱的な条約であり、現在の日米関係は「良識を超えた特殊関係」であると言っている。そして、日本は独立国としての自尊心を譲るべきでなく、「私は憲法改正を実現し、その上で全基地を対象として米国と再交渉し、二十一世紀にふさわしい新しい安全保障条約と、これに内容的にふさわしい地位協定を締結し直すべきであると思っている」と言って、思いやり予算などには真っ向から反対の意向を表明している。
私は村田氏の論に一々反論しない。むしろ、ここでは、私の一方的解釈であるが、村田氏の反米論は本来的なものでなく、彼の外交官としての経歴の中から生まれたものだと思う私の分析をご披露したい。
回想録の上巻第四章にもあるが、村田氏とは、かつて、七〇年安保の体制側の行動部隊として、佐藤栄作総理の首席秘書官、楠田實氏と協力して、愛知揆一外務大臣、牛場信彦外務次官の下で、二人でコンビを組んで、安保条約擁護のキャンペーンに従事した。その頃は、私と彼との間に、アメリカ認識について思想的齟齬はなかったように記憶する。
彼の反米意識が生まれたのは、その後のことであることは、回想録の中の節々からも窺える。「しかし私のかかる日米安保体制との間の心理的葛藤は、当初は大きいものでなかった」とも書いている。そしてところどころに、「全世界的な情勢を見れば、現在でも日米間の利害は一致している部分が殆んどである」、あるいは、「食い違いはあっても、日本が大国米国に譲ってもよいことも多い」、「私はもちろん、米国に対し〝反対のための反対″とも言うべき馬鹿げた政策を日本がとることを主張する愚か者ではない」、というような留保をしつつ論を進めている。
私は、彼のアメリカ認識に決定的な影響を与えたのは冷戦終結前後の日米経済摩擦であったと思っている。
現に回想録第十三章の「私の内心の葛藤」の、「その一」では憲法を論じ、「その二」では日米安保体制を論じた上で、それに続く「その三」の冒頭は「防衛はまだよい」と、日米安保問題などは二次的に考える表現を使ってから、日米経済関係におけるアメリカの理不尽さを糾弾している。これから見ても主因は経済摩擦の体験である。
また、彼が駐米大使の時代は若いときから順風満帆で出世街道を上り詰めてきた村田氏にとって、唯一の挫折の時期である。日米関係があれほど悪ければ、その責任の一端は駐米大使にかかってくる。そうなると官僚の御殿女中的世界では、それまでの羨望、やっかみが表面に出てきて、四面楚歌となる。彼にとってはそういう時代だった。
保守系の言論人、財界人の間でさえ、今でも強い対米不信感が残っているのは、あの頃の経済摩擦の後遺症である。
あのときのアメリカの対日交渉チームの政策の中に、日本に対する善意のかけらもなかったという判断には私は一〇〇パーセント異議はない。
それは、村田氏が、次官、駐米大使だった時期から始まって、むしろ彼の退職後、最悪となる。
最後の段階の数値目標などというアメリカの要求は無理無体なものであった。アメリカ側の理屈は、日本に度重なる自由化をさせたが、貿易収支は一向に改善しない、それは強力なる通産省という役所が背後でアメリカの製品を買わせないように行政指導をしているからだ、数値目標に合意させれば、通産省が指導してアメリカ製品を買わせる、ということであった。
こんな幼稚というか安っぽい議論が、日本の実態とも、経済理論とも乖離していることは、米側自身が承知していたと思う。だから米通商代表部は、経済学者、専門家、日本研究者からの接触を一切謝絶して、独断で交渉を進めようとしていた。
私は、当時の米側は、一般の日本人が想像していたよりも、もっと恐ろしいことを考えていたと思う。米側自身、数値目標は非合理的であり、日本が受け容れても一年経てば達成されないことが明白となると知っていたと思う。そして、目標が達成されなかったときに日本に対して破滅的な厳しい制裁を加えるのがそもそもの目的だったと思っている。日米同盟の解体さえその視野に入っていたと思う。それは、当時のクリントン政権内部の種々の反応から推定できる。
選択肢はアメリカしかない
当時私は十七世紀の英蘭関係との類似に注目して『繁栄と衰退と』という本を出した。国家の存亡を懸けたスペインとの戦争に勝ったイギリスは、その間にオランダにイギリスの経済利益が侵食されているのに気付き、オランダを蛭、吸血鬼と呼んだ。「冷戦は終わった。その勝利者は日本だ」という当時のアメリカの認識と全く同じである。
その際、イギリスが施行した航海条例はオランダを戦争に追い詰めるのが目的だった。オランダがそれを生き延びる唯一の方法は、隠忍自重して妥協を重ね、イギリスの有識者の善意に訴えて戦争を避けるしかなかった。当時のイギリスの中の一部には、現在のアメリカの日本に対すると同様に、価値観を同じくするオランダとの関係を重視する意見もあったのである。
当時の日米関係についても、私が提示できる唯一の政策提言はそれと同じである。
当時の米側の交渉当事者に一かけらの善意もなかったことについて、またそれに屈服することが屈辱的であることについては、私の認識は村田氏と同じであり、アメリカの善意に絶望した村田氏の反応も理解できる。しかし、だからといって、怒ってみても、反発してみても、どうなるものでもない。外交政策の当否の唯一の物差しは日本の国家国民の安全と繁栄である。
日本の安全のためには日米同盟以上のものはない。アメリカの市場、技術との連携なしに、今の日本の豊かな生活水準は維持できない。歯をくいしばってもアメリカとの友好、同盟関係をなんとか維持しようと努める以外ないではないか。この意見について、私は決してブレない。ブレようもない。
日本はなんとかあの時期を凌いだ。最近でも、アメリカで日本の自動車産業が優越したりすると、すぐに、経済摩擦を恐れて身構える人がいる。その度に私は、あれは冷戦が終わって、突然、ソ連という主敵がいなくなって、次の敵はどこかとアメリカが見回していた特殊な時期の一時的現象であって、二度と起こらないと言い続けてきたが、今までのところそれは正しかった。
むしろ、その背後には、経済摩擦に乗じて日本企業から多額の報酬を得て荒稼ぎしたアメリカのロビイスト、ロイヤーたちがその再現を夢見て危機感を煽ろうとしていることもあると思っている。
だから私は、あのような経済摩擦はもう起こらないと思っている。その上で、もし万一それが再び起こっても、それに対応する私の政策提言は全く同じである。
最近の北朝鮮のテロ支援国家指定解除というアメリカの対応は同盟国日本を全く無視したものである。それでも、ではどうするのだ? と問われれば、日本の安全と繁栄のためには、同盟堅持が大戦略であるという答えは変わりようもない。
このほかに、村田氏は日本の核武装の問題などについても、積極的に論じているが、ここで紹介する余白もない。戦後日本の精神史全部をカバーする大著作なので、一つ一つ取り上げていてはきりもない。もう、紙数が尽きてきたので、終わりにしなければならない。
村田氏自身も、彼の令夫人も健康は既に万全ではない。その中でこれだけの労作を残した彼の精神的エネルギーには賛辞を呈する。いずれは去り行く、戦前世代の最後の証言の一つとして、私は多々共感を有したことを表明して、このエッセイを終わりたいと思う。
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