2011年9月7日
愛国主義とは何だろう?
こんな問いかけに対する答えは、戦前の日本なら自明のことであった。そして、恐らくは、現在の日本を除くすべての国民国家にとって自明のことであろう。
しかし、戦後、日本を国家として再び立ち上がれなくさせようとした初期占領政策と、アメリカがその政策を放棄すると同時にそれを継承したばかりか、日本を共産勢力に対して無抵抗の国家にしようとした左翼偏向報道や教育の中に半世紀以上浸っていた日本人にとっては、国家とは何であろうかということ自体哲学的命題となっている。
◇民主主義の“芯”にあるもの
最近ハッと目を開かされた思いがしたのは、民主党政権を目前にした、本誌九月号の長谷川三千子氏の論文「難病としての民主主義」である。それによれば、民主主義は、アテナイ以来、国を守るという求心力が無いとバラバラになる恐れがある、というのである。
現に米英の民主主義は、国家の外交防衛については超党派が原則である。
日本の歴史を振り返ってみても、明治日本の初期議会制度は、発足当時、藩閥勢力と自由民権勢力との間の調整がつかず、はたして、日本に憲政が可能かどうかさえ疑われていた。それがやがて本格的な政党政治として機能し、遂に大正デモクラシーとして花開くにいたったのは、日清戦争を迎えて挙国一致体制が出来たのが端緒だった。この日本自身の経験から言っても、長谷川氏の論点は実に肯綮にあたる発想ある。
ただ、この論点は九ページにわたる密度の濃い論文の最後の一ページだけに書かれている。このテーマだけで一大論文にしても、また単行本にしても良い価値があるものであり、長谷川氏がいつの日かこのテーマをもっと深く掘り下げられることを期待してやまない。
実は、民主主義が最善の制度であることについては、日本人は皆あきらめの境地達している。「民主主義は最悪の政治であるが、今まで実在したどの制度よりましである」というチャーチルの言葉を一番よく理解しているのは、日本人であると思う。それは、明治の自由民権運動以来、専制主義や軍国主義など種々の政治体制を身をもって経験して来た末に、現在の政治のほうがまだましだということを知っている日本人の政治的知恵である。国民がいかに政治に失望しても体制を変えようなどとだれも思わないのはそのためである。
ただ、現在の民主主義のままでは国家が求心力を失ってしまうのではないかという不安感は、常にその裏に存在する。それに対して、歴史的な例をひいて、デモクラシーには愛国心という芯が必要だという点を指摘したのだ長谷川氏の論文である。
それ以上の哲学的考察は長谷川氏にお願いするとして、明治以来誰が愛国主義に徹しいたかという、私は誰をおいても小村寿太郎の名を挙げる。客観的に見て、明治、大正、昭和を通じて、小村ほど、国家主義、民族主義、国権主義、そして愛国主義に徹した政治家は他に見当たらない。
◇念頭にあるのは国事だけ
不平等条約の改正は明治維新以来の日本の悲願であり、幾度かその解決が試みられた。明治二十二年、時の外相大隈重信は、大審院に外国人判事を任命して外国人関係訴訟に参画させる案による解決を図ったが、当時外務省の局長だった小村は、これを国辱と考えて、ひそかに条約の原案である極秘文書をロンドン・タイムズに漏らしたという。結果として世論は猛然と反発し、大隈は来島恒喜に爆弾を投げられて負傷、入院し、改正は挫折する。
その直前に小村は、「おれは謀反を起こすかもしれない」と語っていたという。乱暴な外交官もあったものである。
日清戦争の直前には、小村は代理公使として北京に居た。小村は清国軍の規律、士気などを観察して、清国軍恐るるに足らずとの結論に達し、「朝鮮は必ず東洋の動乱の原因となり、それは日本の盛衰を左右する根本問題であるので、シナが実力を顧みず朝鮮支配を主張し続ける以上、日本はシナと決戦するのが上策である」と考えるに至った。
日清戦争の原因は、東学党の乱に乗じた清国が宗主権を口実に朝鮮に出兵したのに対して、その前の甲申、壬午の乱の際には清国の圧倒的な兵力の前に屈辱をなめた日本が、今度は清国の予想外のスピードと規模で兵力を派遣したところから端を発する。そして、日本は朝鮮の内政改革を主張し、清国は両国軍の即時撤兵を主張してお互いに譲らなかった。
小村が清国側に手交するように訓令を受けた日本側の最後通牒には「清国側はただ撤兵を主張するばかりで日本との交渉に入ろうとしない。それは清国政府がいたずらに事を好むものにほかならない」と書かれていたが、小村は「いたずらに」の前に、自分で筆を加えて「意図的に紛争を起こそうとして」の字句を挿入し、清国側を挑発しようとしている。
そして、国交断絶の訓令がなかなか来ないと、「こんなことをしていては、(戦争の)時期を失してしまう。よしっ、この俺が戦争を始めてやろう」と言って、公使館の旗を降ろして北京を引き揚げてしまう。実は、当時の電信事情で国交断絶の訓令の到着が遅れ、小村の一方的決断と行き違いになっていたのであって、結果的には小村の独断専行ではなかったが、これも乱暴な話である。
今の外務省ではとてもこういう人物は出てこない。こんなことは、後でどんな咎めを受けようとかまわない、自分一身の出世などはどうなってもよい、念頭にあるのは国事だけ、という腹の据わった人間以外にできることではない。
東京着のとき、外相陸奥宗光は新橋の駅まで小村を出迎えに行った。小村が「今回はお叱りを覚悟で帰ってきました」と言うと、陸奥はそれを遮って、「あれはあれでよろしい。時局は足下の説の如くなった」と言ったという。このとき陸奥は、ここに新たな人材を見出したとの感を強くしたという。冷徹な合理主義者の陸奥ではあるが、若い時には謀反に加担して、親友の伊藤博文さえも誅殺する気であった。陸奥もまた、こうした小村を理解できる維新期の人物だったのである。
◇国粋主義者も認めた見識
日清戦争中は、小村は、第一軍が占領している満州の民政長官に任ぜられ、占領地行政から帰ると、明治天皇は親しく小村を召されて事情を聴取された。
その時点ですでに、陸奥は、戦争に勝っても遼東半島を取ることは困難であろうと鋭く予見し、台湾を取って遼東半島を捨てることも考えていたので、小村には満州の重要性をあまり強調しないようにと言い含めていた。
この陸奥の先見性も感嘆すべきであるが、小村は、満州が将来有望な地域であり、遼東半島が日本の国防上重要な地域であることを滔々と述べて、陸奥が後ろから衣服の裾を引いて注意してもやめなかった。そして拝謁後、「陛下の前で緊張して、ついご注意を忘れました」と弁解した。これには陸奥も笑ってあえて咎めなかったという。
こうした小村の人物は、すでに当時の国粋主義者たちが等しく認めるところとなっていたのであろう。
近衛文麿の父近衛篤麿は、早世するが、元公卿の家族の中では、リベラルな西園寺公望と並んで、将来の日本の指導者の双璧として期待された人であった。そして杉浦重剛、頭山満などの国粋主義者の面々が参加していた国民同志会の中心人物であったが、小村が外相となった解き、近衛は、政策当局に小村がいる以上もはや国民運動の必要は無いと主張して、日英同盟が成立したのを機に国民同志会を解散し、小村のための慰労会まで開いた。
小村はその期待に立派に応えている。
日英同盟の締結こそは、日本にとって、アングロサクソンかロシアかという幕末以来の選択に決着をつけ、ロシアの東進に対しては武力を持ってでも立ち向かう決意を示した英断である。これを推進したのは、歴史的文書である小村意見書であり、ここに、現在にいたる日本の親アングロ・アメリカン世界との協調外交の基本路線が敷かれることとなった。これを見て、国民同志会の解散を決めた近衛の見識も立派である。
◇早期開戦を唱えた先見の明
日露戦争の勝利も小村の外交に負うところ極めて大きい。
遼陽の大会戦は、ロシア側二十二万五千人に対し、日本側十三万四千人で戦われた。もちろん装備、弾薬はロシアのほうが圧倒的優勢である。奉天の大会戦は、ロシア側は三十二万、日本側は全部かき集めて二十五万の劣勢である。
無謀な戦いのようであるが、日本側としてはほかに選択肢がなかった。時間がたてばロシア側はシベリア鉄道を使って、どんどん増援が可能であり、もし開戦が二、三カ月遅れていたならば日本の勝ち目はなかったであろう。二、三カ月もあればその間に鴨緑江の北岸でロシアの築城が進み、それだけで日本軍は、遼陽、旅順はおろか、満州内に一歩も入れなかったかもしれない。それはその後の旅順の攻防戦を見ればわかる。
戦争の前年の六月、閣議は、小村の提議により、韓国はその一部たりともロシアに譲らないと決定している。したがって十一月にロシアが竜山浦に入ったことは十分開戦の理由となった。その時に開戦していれば、まだ、兵力比は日本にとって有利だった。
しかし、明治天皇は慎重だった。最慎重論者だった伊藤博文までが開戦の決意をしても、「もし、しくじったら(祖宗に)申し訳ない」と繰り返され、やっと二月五日になって海軍の発信命令が出された。その間一日でも早くと、万策をこらした小村の努力が最後に実ったのである。帝国主義時代の真っ只中にあって、日本の国民の安全を救ったのは実に小村の働きであり、国を思う情熱だったと言って良い。
◇不変の愛国主義
ただ、その後の事態における小村の行動については賛否の分かれるところである。
ポーツマスの和平交渉においては、小村は、早期和平に強硬に反対し、仲介に立った米国は小村の頭越しに東京に訴えて和平調停を実現させている。そして、ハリマンの満州鉄道日米共同運営案をけったのも小村である。
個人の行動に対する歴史の評価は難しい。小村の死後二十年を経て、満州国が建国された。当時満州に建立され、今でもその写しが飫肥の小村記念館に残っている石碑は、小村がハリマンの提案を拒否していなければ現在の満州国はなかったと、小村の先見の明を称えている。人間の評価は棺を覆って定まるというが、死後二十年たって、まだその功績が称えられれば、もって瞑すべきものがあろう。
しかしその十余年後の敗戦によって、その評価は逆転する。小村が最初に手をつけながら、小村が手を離したアングロ・アメリカン協調路線を続けていれば、日本があの惨憺たる敗戦を味わわずに済んだことは、今から見れば明らかだからである。
ただ、それは時勢の流れであり、また、後世の彼の後継者たちの責任であろう。誰も死後半世紀のちのことまで責任は持てない。死せる孔明が生ける仲達を走らせたのもたった一度だけである。その後は後継者たちの責任である。
帝国主義時代の真っ只中にあって、日本の独立と自由を守りえたのは小村の愛国主義の賜物である。日本はその後敗戦を経験するが、現在の日本の高い知的水準、整った国家制度は、帝国主義時代に、日本が、列強の植民地にも半植民地にもならず、一流国家であったことの遺産であり、日本国民はだれもがその恩恵を受けている。
国のためを思う信念のある人間が居ること、それは国家の存立にとって、かけがえのないことである。
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