2011年9月14日
◇再認識されるべきバーク
自民党が初めて衆参両院において第一党から転落して、自民党の新しいアイデンティティーが模索され、さらに最近では自民党の現執行部にあきたらず新たな保守政党を求める動きが生まれつつある中で、何が真正保守主義がという問題が問われている。
それは、次の参議院選挙で自民党が失地を挽回するためには、どういうイメージが必要かという短期的で戦術的な差し迫った点から、日本にとって、いかなる保守主義が必要とされているかという、長期的、政治哲学的な面をも含む大きな問題である。
とくに、自民党に代わった民主党の外交安保政策が混迷して、日本の国益を殆うくしているという危機感の下において、日本が必要とする真の保守主義とは何かという問題が改めて問われている。
一月二十四日、自民党は新たな綱領を採択した。これを読んで私はややホッとした。と言うのは、私は、この綱領採択前の原案を読む機会があり、その討議の前途に少なからぬ不安を覚えていたからである。
自民党政権構想会議の第一回会議では、討議用のメモが配られたが、その冒頭次のように書いている。
人間社会の営みは、生産、交換、分配、消費によって支えられる。この営みを如何なる政治理念(イズム)で行うかについては、近代社会では自由競争(創意工夫と自己責任)を重視する自由主義か、統制・計画(指導者の判断・責任の集約)を重視する共産・社会主義かに大別される。・・・自由主義は民主制と、共産・社会主義はその性格上独裁制と結びつきやすい。
私はこの考え方には違和感を覚えた。共産主義、社会主義、全体主義などの極左極右が、中央統制、計画経済を重視することはその通りとしても、真正保守主義に立脚した民主主義が、経済上の自由主義と結びつくと定義して良いかどうか、もう一つ自信が持てないのである。
保守主義を論じると結論はエドマンド・バーク(一七二九―一七九七)の保守主義に帰せざるを得ないと思う。バークは、人間の理性が花開いていた十八世紀の啓蒙主義の真っただ中にあって、人間の理性に頼ることのもたらす危険に警告を発し続けた人であり、今でも保守主義と言えば、バークなしでは語れない。
そもそも、政治を、生産、分配の仕組みで理解しようというのはマルクス的発想である。これこそ、保守主義の元祖バークに言わせれば、政治を先人たちの歴史の遺産で解釈せずに、人間の知性、あるいは浅知恵によって作り出された観念で把握しようという、非保守主義的態度である。
ちなみに、バークはホイッグ党(のちの自由党)の政治家であり、アメリカ植民地の反乱を支持し、インドの植民地支配を批判した、今で言えばリベラルの立場である(英書の解説では、バークは「リベラル」がまだ「コンサヴァティヴ」の対立概念でなかった時代の人と言っている)。バークは、マグナ・カルタ以来積み重ねてきた英国の議会主義と自由の伝統がフランス革命の急進思想で破壊されるのに反対したのである。
ただバークの原典は、現代人には読みにくい十八世紀的な英語であり、またまとまった理論体系があるわけではなく、種々の論説や講演の集合体なので、むしろここでは後世のバーク研究者たちのまとめによることとしたい。
バークによれば、保守主義とは、祖先から受け継いだ伝統的な知恵を尊重し、それを子孫に伝えていく哲学である。その裏には、人間は多くの間違いを犯す不完全な存在であり、人間の知力などというものは矮小で欠陥だらけのものであるとして、人間の浅知恵への過信を根源的に危険視する謙虚な人間観がある。
キッシンジャーはその出世作「回復された世界平和の中」で、メッテルニヒとバークの保守主義を比較して、前者は理論に基づく保守主義であるのに対して、後者は歴史に基づくと定義している。そのどちらが、今に生き伸びているかを思うだけで、保守主義の本質についての示唆が得られよう。
バークは、我々の住んでいる文明社会はもともと人間の知力で設計されたものではないのだから、そこに人間の浅知恵によって、社会の“設計”や“計画”が参入すれば、文明の破壊は不可避となり、個人の自由は圧迫され剥奪されると考えたのである。
そもそも“革命”という伝統を無視した社会変革は、世の中を良くはしない、とバークは考える。
まさにバークが指摘したとおり、人間の理性を絶対視したフランス革命は、血ぬられたギロチンの阿鼻叫喚の巷をつくりだした。フランス革命だけではない。戦争と革命の世紀である二十世紀を経験した我々の世代にとってこそ、人間の浅知恵がもたらした惨禍の教訓は骨身にしみるものがある。
◇“自由”だけが保守ではない
それは、人間の浅知恵で理想社会を建設できると考えた結果の、ソ連邦による富農撲滅の惨劇、七十年にわたる収容所群島、数千万の人命を奪った中国の大躍進運動、文化大革命の例を見れば、恐るべき先見性である。
バークは、フランス革命における自由の理念の暴走を批判したが、自由競争を重視するというイデオロギーを振りかざすこと自体、自民党が今目指すべきはずの真正保守主義、つまり、バークの保守主義と反対の方向の精神的態度である。
ここから、小泉・竹中路線を巡る自民党内の思想の混乱も説明できると思う。
小泉・竹中路線の背後には規制廃止、自由競争原理を重んずることこそ、真の民主主義であり、保守政党であるという主張がある。
極左極右の政府統制、計画経済の思想を排して、できる限り経済の自由競争を尊重するのが保守主義だというのは、原則論としては良いとして、その実施にあたっては、場合によってはある程度の政府統制も加える、ということは保守政権のとる態度として常識であろう。とくにリーマン・ショック以来、アメリカの経済学者の中でも、もはや金融界の自由化は善、規制は悪と一方的にいう人はいない。或る程度の常識的な規制は必要ということに広いコンセンサスがある。
その観点から小泉・竹中改革、とくに、郵政民営化を考えると、自由経済理論の上に立った措置ではあったが、従来の日本政治、経済、社会に根差した制度を、バークの言う人間の理性、あるいは浅知恵で急速に変えようとしすぎたきらいは無かったか、という点が問題となる。従来の自民党支持者が郵政改革で戸惑ったのもその点であったと思う。
いずれにしても、どの程度政府の統制が望ましいか、民営化と政府の統制のどちらが良いかなどということは、どちらが民主主義の正統路線か、あるいは保守の本流であるかというような大きな問題ではない。
常識の範囲で、国民の利益を最大限にするための財政、金融、産業政策の問題に過ぎない。こんなところで、自由主義の原則論に遡って自民党の路線を議論するから混乱するのである。
こうした発想の裏には、現在の米国における保守とリベラルの対立、すなわち小さな政府か大きな政府かの対立との類比があるのかもしれない。
しかし、元祖の英国でも労働党は国営化、保守党は民営化という対立は過去の事となっている。現に戦後半世紀の日本の保守と革新、自民党と社会党との間の主要な対立点はむしろ護憲論争にあった。
現在民主党の政策は、たしかに大きな政府的バラマキ予算であるが、そのスローガンとしては官僚機構、特殊法人などの整理を掲げる一種の小さい政府を主張し、特に中央官庁を縮小する地方分権を主張している。
米国の共和党内保守派は、小さい政府派であると定義する事は間違いではないかも知れないが、自民党が米国の共和党保守派と同じ路線でなければならない、と決められても、自民党支持者は当惑するであろう。
いずれにしても、経済の自由化をうたっているから真に保守的であり、政府が規制を強化すれば直ちに社会主義的であるとする定義は、現在の日本政治ではほとんど意味が無い。戦後日本が置かれた知的環境の下では、真の保守主義は、経済問題ではなく、外交、安保、教育などの面でその真価が発揮されるべきものである。
昨年十二月十五日の第二回自民党政権構想会議では、まだ、その尻尾が残っている。
「政治主導」の言葉の下での中央統制的意思決定を行う民主党という「国家社会主義的政党」と「戦わなければならない」とした。
民主党なる寄せ集めの政党を一つにまとめて国家社会主義的政党と定義して、これと闘うのが自民党のイデオロギー的使命であると定義しても、自民党支持者は戸惑うだけであろう。
ところが、出来上がった新綱領はそのような違和感を抱かせない。
前文の現状認識において、「我々が護り続けてきた自由(リベラリズム)とは、市場原理主義でもなく、無原則な政府介入是認主義でもない。ましてや利己主義を放任する文化でもない」と言っている。ただし、民主党の政策については「我々は、全国民の努力により生み出された国民総生産を、与党のみの独善的判断で国民生活に再配分し、結果として国民の自立心を損なう社会主義的政策は採らない」と民主党のバラマキ政策を正面から批判している。これはなかなか良くかけた文章であり、これなら違和感は無い。私はその過程には関与していないが、党内の討議の結果ここまで来たということなら、自民党もまんざら捨てたものでもないという感を新たにした。そして、綱領の中の憲法改正をはじめ、その他、外交、安保、教育などの具体的政策提言についても違和感は無く、むしろわが意を得たりという感がある。
もともと私は、経済問題を保守主義の中心に持ってくる発想には戦後日本社会の歴史的背景があると思っている。
戦前から戦後もしばらくの間は、議会解散、内閣改造などの政治的変動がある都度、新聞が掲げたのは、東京大学の政治学の教授たちのコメントだった。
ところが、大学の左傾化でそのコメントが現実と乖離してくるにつれて、東大の権威が堕ち、折から高度成長の下で発言する機会の多くなった経済関係者の評論が幅を利かせるようになった。
経済問題を中心に置く考え方の一つの表れとして、最近、といっても過去三十年ほど使われている「保守本流」という言葉がある。
この言葉は、経済重視の「吉田ドクトリン」を掲げる宏池会系統の経済優先政策をさす言葉として使われているようである。
ちなみに、最近の若い人と話をして驚くのはオリンピック景気というものがあったと信じていることである。
私の記憶では当時誰もが「オリンピック不況」を嘆いていた。少なくともオリンピック後十年間は「オリンピック景気」という言葉は存在しなかった。
経済成長率の統計を見ると、たしかに、岸時代の「岩戸景気」、佐藤時代の「いざなぎ景気」の二つの大きな景気の山の谷間である池田時代、東京オリンピックの頃に、針のような短期間の突起がある。しかしその高さから言っても、さらにビジネスにとって最も必要なその持続性からいっても岩戸景気やいざなぎ景気とは較べ物にならない。それは統計グラフを見れば一目瞭然である。
ところが最近の教科書などでは、池田内閣は、岸内閣の路線を転換して、所得倍増計画を掲げ、新幹線、高速道路などを作って、オリンピック景気をもたらし、日本の高度成長路線を敷いたという歴史観になっているらしい。これは、はっきり言って歴史の改竄である。復興と成長は戦後自民党の一貫した路線であり、池田内閣の独占ではない。
この歴史の改竄が行われた背景は、当時のことを思い起こしてみれば分かる。
それは、六〇年安保当時のマスコミ、「進歩的」インテリが、その論理はあやふやなままムードに流されて安保改定反対、岸内閣打倒を叫び、それに代わった池田内閣を支持するために、イデオロギー的な説明を必要とした産物である。
それでも、その後十年間はオリンピック景気などという言葉は無かった。山一證券が取り付け騒ぎを起こした、当時の不景気を覚えている世代が現職にいる間は、そんな表現は使い得べくもなかった。
保守本流というものが実在したとすれば、それは一九六九年の沖縄選挙で圧勝して三百議席を得た佐藤政権の時代である。その頃は、本流、傍流を言う必要もなかった。
しかし、その絶対的な本流が佐藤政権の後継争いで福田、田中支持の二つに割れてから、主流争いが生じた。そして、福田内閣のあとで大平政権ができたころから、支持者の間で、吉田ドクトリン(これを主唱した永井陽之助氏自身それはフィクションだと言っている)なる言葉が使われ始めた。
大平内閣の源流を、スキャンダルで倒れた田中内閣ではなく、池田内閣に置いたあたりから、保守本流という言葉が出て来たのである。
もともとイメージの上では、福田派のほうが保守的であり、岸、佐藤時代の保守主義の伝統を継いでいる福田派を保守本流という方が自然であったが、福田派はあえてそう呼称しようとはしなかった。むしろ、宏池会系が本流でないからこそ、本流という言葉を使ったのである。
最近、森田一氏は「心の一燈」という大平正芳の回想録を出されたが、その中で次のように書いている。
-保守本流という意識を、大平先生はどのようにおっしゃっていましたか。
森田 何かの区切りのときには、「我々は保守本流だから」という言葉を使う。スピーチにも会話にも出てきますしね。あまりそういうことを言わない人なのだけど、私が不自然だと思うくらい保守本流という言葉をよく使っていた。
「不自然」なぐらいという表現の中に、無理をして保守本流を唱えた意図が窺われる。
要は、岸、佐藤、福田の安保優先政策、親韓、親台湾政策(実は、岸のあとの佐藤、福田は、政権掌握後は、そこまで腰が定まらず保守派を失望させたが)に対抗する、経済優先、親中政策が保守本流だというフィクションが作り上げられたのである。
池田内閣の所得倍増政策と言っても、最初は岸内閣時代の高度成長の延長に過ぎず、あとはオリンピック不況の時期である。
ただ、岸内閣を悪の権化のように言うしかなかった当時のインテリ、メディアとしては、経済の実績では岸、佐藤内閣の方が遥かに良かったとは到底口に出せなかった。今でもそれに抵抗を感じる人々は居る。そこで、高度成長の功を全部池田内閣に帰したのである。
それが当時の雰囲気だったのだ。この自称の保守本流が言わんとしたところは、安全保障重視のタカ派保守に対して、自分たちは経済優先のハト派保守だということであろう。
◇“国家意識”と“民主主義”
しかし、もともと安全保障と経済とは対立概念ではない。これを対立概念のようにすり替えたことから、一九七〇年代以降の日本の政治思想の頽廃が起きたのである。
確かに、戦後の日本のように安全保障を軽視する風潮がある場合には(明治の自由民権運動では、逆に、野党の自由党のほうが常にタカ派であった)、安保重視は保守主義の物差しになり得る場合が多いが、経済は保守主義と無関係の中立的概念である。
ちなみに、民主主義と国家の防衛との間の関係について哲学者の長谷川三千子氏は注目すべき論を展開しておられる。長谷川三千子氏によれば、民主主義は本来遠心的なベクトルを持っているので、国を愛するという求心力が無いとバラバラになる性質があり、アテナイの法律では売国罪を民主制転覆の陰謀と同じ重大犯罪として併記してあるという。
これはきわめて鋭い観察と思う。だからこそ英米のデモクラシーでは外交安保では超党派外交が常識である。
歴史の実例によって考えれば考えるほどこの観察は正しいことが分かって来る。
日本の場合、明治憲法は当時の薩長藩閥体制にとって進歩的過ぎた。予算の増額には帝国議会の承認が要るという、民主主義的な規定が、ドイツの専門家の反対にもかかわらず、伊藤博文などの主張で挿入されていたからである。
国家が急成長の過程にあり、また、日清日露の戦争を戦わねばならなかった明治の憲政出発当時においては、予算が前年度のままではどうにもならない。そこで、野党が制する議会が強大な発言力を有するに到った。
選挙を何度やっても、選挙干渉しても、自由民権運動以来の野党の勢力は牢乎たるものがあり、予算の編成は困難を極めた。
憲法制定は時期尚早だったとして、憲法停止論も出た状況だった。政府としては、解散、総選挙を繰り返すしかなかった。
ところが日清戦争がはじまるや否や議会は一致して政府を支持し、日本の民主政治は救われた。そして、その日清戦争中の政府と野党の協力関係の延長線上に、伊藤博文を党首とし、自由党が全面協力する形で立憲政友会が生まれ、それが核となって、やがては大正デモクラシーとして日本の民主政治が花開くことになる。
考えてみれば、名誉革命(一六八八)からワーテルローの戦い(一八一五)までの間の英国の憲政成熟期は、常に近代百年戦争と言われた英仏戦争の真っただ中だった。
名誉革命とは、それまで英仏のカソリックの王家が組んで新教のオランダいじめをしていたのが、オレンジ公ウィリアムの即位により英蘭同盟とフランスとの間の百年戦争が始まることを意味した。
したがって、英国憲政の成熟期には、一世紀以上にわたって、主敵たる対仏外交、防衛の基本については与野党間に意見の相違が生まれる余地が無かったことが、英国の議会政治を定着させ、外交防衛についての超党派の伝統を生んだと言えるであろう。バークが警戒感を持った民主主義(バークはマグナ・カルタ以来の英国伝統の議会主義は支持したが人民が主権を持つ民主主義には懐疑的であった)が英国社会を分裂させず、ついに、英国風議会民主主義として世界の範となった背後には、英仏新百年戦争があったという史観も十分可能である。
とすると、現在の日本のように国家意識が分裂した国で果たして民主主義が可能かという新たな命題が生まれて来る。
ただ、これには私は必ずしも悲観的ではない。一見日本人の国家意識は分裂しているように見えても、日本人には伝統的な国家意識は存在しているように思う。国を愛するという明治以来の伝統はそう簡単には崩れていないと思う。
というよりも、国家なるものが成立して以来数千年の人類の歴史の中で国家という価値観は定着している―バークの言葉では、すでに「時効」が成立している人類の遺産の典型である―と思う。
人類が社会生活を営んできて以来の中心的な存在は、国家、民族とそして家族である。
そんなことは、人は何のために死ねるかと設問すればすぐわかる。家族の危険を救うために死ぬ危険を冒す人は居る。もう少し大きな単位を取ると、世田谷区のため、東京都のため死ねる人は居ない。会社のためでも死ぬことまでできる人は居ない。
それが国家、民族となると、いる。日本の国家、民族に脅威が迫った最後は一九八〇年前後、ソ連が北方領土まで旅団規模の地上部隊を派遣して、日本がソ連の侵入の危機にさらされた時期だったが、その頃北海道に赴任する自衛隊員はお国のために死ぬ覚悟であった。
そこから上の単位である、地球、人類のために死ねる人は居ない。原発は人類の将来を危うくするといって反対運動をする人は居ても、そのために自分の命を捨てる気など、さらさらないのである。
国家、民族と家庭を守るのが保守主義であるという定義に反対は無いであろう。あるいは民主党に聞いても、それは自民党の独占的価値観ではない、と言うであろう。
しかし外国人参政権の問題などを見ていると民主党に国家意識が希薄なのではないかと気になる。確かに民主党には戦後の左翼偏向の影響は存在するようである。それは長期的には教育改革で徐々に直していくしかないのであろう。そこに、保守主義にとっての教育の重要性が出てくる。
◇“真正保守主義”の探求
自民党がはっきりした国家意識と家族の尊重を示すことが、自民党再生の王道であると思う。それは外交政策、安保政策、教育政策ではっきり表明されるべきものと思う。
一つの問題は、真正保守に立ち戻るだけでは、保守の基盤が狭くなって、選挙において、国民の広い支持が得られないという危惧があることである。
まさに現在アメリカでも、この前の大統領選挙で敗退した共和党の再建のためには、真の保守主義に立ち返ることを主張する勢力と、それでは中間層の支持が離れてしまうと危惧する向きとが、対立している。
しかし、民主主義のもとに置いて政権交代などをもたらす大きな揺れは、政権のイデオロギーの選択というよりも、現政権に対する失望、挫折感の表明として野党を選ぶ場合のほうが多い。そういう時に中間層はいずれにしても大きく揺れるのであるから、一つのイデオロギー的支柱を持って、固定層からの確固たる支持票を得ている政党は強いと思う。
そこからも真正保守主義探求のモティヴェイションが生まれる。昨年の選挙における自民党の敗北の理由の中に、安倍政権のあとに、すぐに麻生政権でなく福田政権を持ってきたこと、そして元空幕長の田母神俊雄氏への冷たい処遇などが、保守派の自民党に対する失望を生んだ一因として指摘されている。
基盤が狭くなりすぎることへの対応策は、イデオロギー的な芯を持ちながら寛容であることであろう。ペイリンなど共和党保守派の問題はその非寛容さにあるように感じる。
それは、言葉の上だけの説教であるような印象も与えよう。しかし、寛容であるということ、つまり保守主義のイデオロギーを堅持しながら、イデオロギーそのものには至上価値を置かず、常識とか伝統とのバランスを常に考えるということ、つまり、謙虚であること―それ自身がエドマンド・バークのいう真の保守主義であると言える。
私はこの「謙虚さ」というものの中に政治の深い本質がるように感じている。
私が団塊の世代(いま六十から六十代半ば)、あるいはもう少し広くとって全学連、全共闘世代(六十から七十代半ばまで)の世代に違和感を覚えるのは、つづめて言えば、彼らに見られる謙虚さの欠如である。
思い出すのは、一九六九年の沖縄選挙で自民党が圧勝して、三百議席を得た後のことである。
当時の、まさに保守の牙城と言える、素心会(岸信介、賀屋興宣、千葉三郎などがメンバー)の幹部が言っていた。「今度入って来た議員たちはどうしようもない。早くもう一度選挙をしてふるい落とさないと自民党がダメになってしまう」。その予言が四十年を経て現実のものになって来た感がある。
当時の新人議員の風潮は「偉い人の言うことなど聞きたくない。俺たちの言うことを聞け」というものであった。今となっては、当時の雰囲気を覚えている人は少ないであろうが、若手の議員が徒党をなしては佐藤総理との面会を求めて、総理がそれに辟易していた状況は、新聞にも載っていたので、今からでも検証できると思う。
今も昔も変わらないと言う人もいるが、最近のいわゆる小泉チルドレン、小沢チルドレンのほうがずっと大人しく、指導者の意向に従順である。やはり、特異な世代だということが出来よう。
当時を覚えている本人たちが正直に回想している。「俺たちのいうことを聞けと叫んで、いざ会ってみると何を言って良いのか分からなかった」と。謙虚さの欠如とは、既存の価値観、既存の権威に対する生意気さと言えば、当時の雰囲気にピッタリくると思う。
それはまた当時まっ盛りであった中国の文化大革命のスローガンである「造反有理」の反映でもあった。これこそまさに、バークが忌み嫌ったものである。
◇鳩山政権の浅知恵
謙虚さの欠如、それが現代内閣の一番の問題ではないかと思う。
現内閣が外交、安保、とくに沖縄の基地問題について知識が無いのは、今まで政権にいなかったのであるから、当然である。ただ、問題は、自分の知らないことについて謙虚さが無いことである。
それがその世代の特徴である上に、半世紀ぶりに自民党政権を倒し、今まで自民党がしてきたことをことごとく否定するというだ立場から、それが増幅されているのだと思う。
従来の立場を否定すると言いながら、代わりに何をするか定見が無いと、どうしても過去の経緯の重みの無い、その場その場の浅知恵を言うしかない。それが如実に表れているのが、沖縄の基地問題についての発言のブレである。
そこで日本の将来を考えて、もう一度バークに戻ると、保守主義とは、人間の浅知恵で社会を変えられるという思い上がりに対するアンチ・テーゼである。そして、それはソ連、中国の共産主義の失敗で実証されている。
ただ、ソ連、中国の場合は、それがいかにナイーヴであったにしても人類の社会を改造しようという理想主義が背後にあったが、敗戦後の日本占領政策を考えると、それ以外の要素があった。
それは、日本人から物質的だけでなく精神的にも報復能力を奪おうとした初期のアメリカの占領政策―それは未熟なニューディーラーたちの浅知恵で、一週間で書き上げた憲法案に最も端的に表れている―の結果である。そして、アメリカがその政策を修正する必要が生じた後も、それを継続させて、共産主義勢力に対する日本の抵抗能力を奪おうとした左翼系偏向教育と報道という、悪意の浅知恵の残滓がいまだに広く残っていることも問題なのである。
今となっては、こういうことを指摘しても、日教組教育、大学の偏向講義、メディアの偏向報道の下にどっぷりつかって育った世代の中には、自らの思想の偏向にさえ気づかず、それは日本人自身が望み、支持した改革だったという偏向教育の教えを信じ切っている人々も多い。
この偏向を克服することが真の保守主義だとすれば、結局それは志半ばで病に倒れた安倍政権の「戦後レジームからの脱却」こそ保守主義だということになる。
戦後レジームと言っても、まず、言論、結社の自由は、もともと明治憲法で規定されていたのが、非常時体制で束縛されていたものであり、戦争が終わると同時に東久邇内閣が独自に解除した。後から来た占領当局が、やり過ぎではないかと心配した位である。婦人参政権、労働組合法、農地解放は、大正デモクラシーの延長線上と、その後の世界の趨勢の上にあり、占領当局の指示の前にすでに幣原内閣により準備され、直ちに施行された。それもマッカーサーが感嘆したほどである。
日本側が全く意図せず、占領によって強制されたのは、まず、財閥解体、公職追放であったが、それはあまりに不合理なため、占領中にすでに漸次解除された。しかし憲法と教育三法だけはそのまま残った。
教育三法は安倍内閣によって、約六十年ぶりに改正された。ただ、その実施がその後停滞しているのは残念であるが、それは、今後の内閣の課題であろう。
そして最後に残ったのは憲法である。
もちろん一国の憲法が外国人の浅知恵によって起草され、いまだにそのまま残っているという異常な事態はいつかは修正されなければならない。
もっとも、そのあまりにも非合理な点はその後の裁判所の憲法解釈によって、少しずつ改変され、日本に固有の自衛権があることは認められて、自衛隊も合憲となった。ただ、その過程で、自衛権を個別的自衛権と集団的自衛権に分けるという、珍妙な解釈が行われ、しかも集団的自衛権は保有するがその行使は許されないという、法理上支離滅裂な解釈が加えられ、それが今に至るまで、日本の安全を守るにあたっての足枷となっている。
この憲法の改正と教育三法改正の本旨の実施が真の保守主義の今後の課題として残っている。それは、今度の自民党の綱領でも謳われている。
ただ、当面、自民党は野党である。野党としての課題は、戦後レジームからの脱却に逆行しようとする傾向のある政府与党の政策にブレーキをかけること、そして、外国人参政権など、人間の浅知恵で社会を変えようとする新しい未熟な試みを制御することにその主たる任務があるのであろう。
蛇足であるが、保守主義の論者は必ずそれは絶えざる進歩主義であるという留保を忘れない。それは当然である。現在の文明社会は人類の絶えざる進歩によって創られてきたものであり、その先人たちの歩みを続けてゆくのが保守主義だからである。(おかざきひさひこ)
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