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米国のアジア回帰は本当に続くのか

2013年1月7日


日本にとって最大の関心事はオバマ政権のピボット政策、すなわちアジアへの軸足移動政策が続けられるかである。それについて私はまだ100%の自信を持っていない。

 

ご都合主義だった対中政策 

ピボット政策は、ひとえにヒラリー・クリントン国務長官の努力のたまものと言って良い。

オバマ政権の初年、2009年の最初の10カ月は対中傾斜一辺倒と言って過言でなかった。オバマ就任後の初訪中は同年11月に予定され、その成功に障害となるような事案は全て先送りとなり、中国の気に入らないことは一切避けるのが方針だった。

台湾への武器供与はその年の夏には可能となっていたが、実施を見送った。また、ダライ・ラマは秋にワシントンに滞在したが、オバマは会おうとしなかった。ワシントンにまで赴いたダライ・ラマに米大統領が会わなかったのは初めてである。中国の人権問題に対する批判も一切差し控えた。

だが台湾向け武器供与もダライ・ラマとの面会もいつまでも引き延ばせる性質のものではなく、11月の訪中が終わると次々と実施された。

中国はこれに予想以上に激しく反発し、米中の軍事交流は停止され、米中関係は一挙に冷え込んだ。中国がこのような動きに出た理由はいまだに外部には不明であり、情勢分析の対象となっているが、一般的に言って2012年の中国共産党の指導部交代を前にすでに権力闘争が始まっており、強硬意見が通りやすい状況になっていたと判断される。確かにオバマ訪中までの米国の態度はいかにもご都合主義であり、米国くみしやすし、と強硬派の地位を固めさせた効果があったかもしれない。

 

クリントン国務長官による対中包囲網


ここで、それまで固く沈黙を守っていたクリントンが急に発言し始めた。

大統領就任後の1年間、オバマがアハマディネジャド・イラン大統領などの独裁者との直接対話を提案し、プラハでは核の全廃を訴え,カイロではアラブとの友好関係をうたい、対ロ関係の再構築を呼びかけても、それらが元来国務長官の所掌であるにもかかわらず、クリントンは一切沈黙を守りコメントしなかった。

この間、私が覚えているクリントンの演説は国務省の機構改革と、国連の人権委員会での発言だけである。私は、クリントンという人は、外交演説などはしない人かと思ったくらいである。

ところが2010年1月のホノルルでの演説以降、クリントンは決然と発言し始め、一貫してアジア復帰を唱えてきた。発言の内容は、「中国」と言う言葉を使うのは避けているが、その本質は中国包囲網形成政策と言って間違いない。麻生外相・首相の「自由と繁栄の弧」と同じ趣旨である。

その年の7月、クリントンは東南アジア諸国連合(ASEAN)の会議で、中国の反発を顧みず、あえて南シナ海の領土問題を取り上げた。そして9月には、尖閣付近における中国漁船と海上保安庁の巡視船の衝突事件に際し、尖閣は日米安保条約の適用地域と明言した。

同年秋の横浜におけるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議を前に、クリントンはハワイ、グアム、オーストラリア、ニュージーランドなどを訪れ、オバマはインド、インドネシア、韓国、日本を歴訪するという対中包囲網を演出した。その間もクリントンは常にオバマの顔を立て、アジア重視はオバマ政権発足以来の基本方針と言いつつ、アメリカのアジア回帰を推し進めた。

 

オバマ大統領の心の揺れ


分らなかったのはオバマの真の意向だった。

横浜でのAPEC首脳会議前のアジア歴訪に出発するにあたり、クリントンは再びホノルルで演説し、アジア復帰――実質は中国包囲網政策――を述べた。一方、オバマは新聞への寄稿で、インドネシアとインドが米国の有望な輸出市場であり、米国の雇用に寄与すると述べただけだった。このときは、大統領と国務長官の間に思想の齟齬(そご)があるのではと疑ったぐらいである。

この疑いを払拭したのは、2011年11月のオバマによるオーストラリア議会での演説である。クリントンが最初に声を上げてから、実に2年近くを要している。

この間、オバマに心理的抵抗があったことは想像に難くない。オバマが大統領選挙中から希求したのはブッシュ時代にグルジア情勢や東欧へのミサイル防衛(MD)配備などをめぐり悪化した対露関係のリセットであり、イラン、北朝鮮などの指導者との直接対話であり、核の全廃であり、中東諸国との信頼関係確立であり、すべてリベラル、理想主義路線であった。

アジア復帰は、基本的にはパワーポリティクスに基づく現実主義、保守主義路線であり、オバマのアジェンダにはもともと無いものだった。それがクリントン主導で2年かかって定着したのである。

 

現実路線が続く理由


クリントンは国務長官を一期での引退をすでに表明し、クリントンの下でアジア重視政策を遂行したカート・キャンベル国務次官補も引退が予想されている。彼らが去ったあと、オバマがアジア重視政策を推進するだろうか、と言うのが私の危惧である。

希望的観測を許す種々の条件はある。

一つは国際情勢の大勢である。

21世紀の国際情勢における最大の問題は中国の勃興であり、それに伴うパワーバランスの変化であることは誰の目にも明らかである。世紀の変わり目、2001年の海南島事件(※1)はその予兆であった。ところが同年9月11日の同時テロ事件以来、丸々10年間、米国の関心はアフガニスタンとイラクに向けられた。これは当然のことではあるが、9・11事件が米国民に与えた心理的ショックが異常に大きかったため国際情勢の大きな流れが見失われてしまった。

それがアフガニスタン、イラクからの米軍撤退と、瞠目(どうもく)すべき中国の経済・軍事力の成長により、中国が再び米国の外交の主たるアジェンダになった、という自然な流れがあるのでクリントン、キャンベルが去ったからといって政策が変わるような客観情勢ではない。

もう一つは第2期オバマ政権の新人事であり、まだ明らかではないがオバマの親友と言われるドニロン大統領補佐官(国家安全保障問題担当)は要職に就き、国防総省でアジア・太平洋地域を担当するリッパート次官補は留任が予想される。2人とも極めてシュルードな(鋭い、抜け目ない)政治意識はあるが、国際政治について特別なイデオロギーを持つ人ではないようである。彼らは特に日本に友好的である保証は無いが、かつて満州事変から真珠湾まで極東を担当したホーンべック(※2)や、ブッシュ政権末期に親中政策を推進したゼーリック(※3)のような、イデオロギー的な親中派ではない。つまり、日本の外交次第で対処できる人々である。

問題は日本外交である。集団的自衛権の行使を可能にし、それに基づいて日米防衛協力のためのガイドラインを書きなおし、環太平洋パートナーシップ(TPP)に協力する形で日米関係を盤石にすることが、アメリカをアジアに、その前に日本に引き留める王道である。

 

(※1)^ 2001年4月に南シナ海上空で米軍の偵察機と中国軍の戦闘機が空中衝突した事件。

(※2)^ 米国の外交官で第2次世界大戦前、戦中の米国の対極東政策に大きな影響を与えた。

(※3)^ 2001~2005年米通商代表、2005~2006年国務副長官、2007~2012年世界銀行総裁。

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